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《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第9章 ハイドレンジア 第2話 近くで笑っていたい

第9章 ハイドレンジア

第2話 近くで笑っていたい

「う、あ、そ、そんなこと憶えてたのっ」
 
 かああ、と顔が赤く染まるのを感じる。頬の熱を振り払うように、ふるふるとかぶりを振った。いくら小さなころの話だっていっても……かなり恥ずかしすぎる。
 
「あのときのこと、晴花は忘れた?」
「いや、うん……そういえば、そんなこともあった、かも……。うん、今はっきりと思い出した……」
「そう」
 
 雨月は安堵したように、ふわりとほほえんだ。
 
「あれがおれのファーストキスだよ」
 
 胸がきゅう、と締めつけられる。どうしてそんなに優しい顔をするのだろう。わたしはまだ熱を持つ頬を押さえながら、横目で雨月のことを見た。
 ……あれが雨月のファーストキスなんて言ったら、そんなの。
 
「……わたしだって、あれがファーストキスだし……」
 
 雨月だけではないのだと声を震わせながら伝えると、雨月は瞳に力を込めるようにまぶたを上に押し上げて、胸いっぱいに息を吸う。笑顔を見せたわけではないのだけれど、それがどこかうれしそうな表情に見えたのはわたしの思い違いだろうか。
 
「晴花」
 
 突然、雨月がわたしの手をとって強く握りしめた。再びぐっと近づけられた顔に、思わず背中を仰け反らせる。なに、と問う間もなく、雨月は真剣な表情でこう言った。
 
「おれが卒業したら、一緒に住もう」
 
 思考が固まった。体の動きも固まった。まばたきもしないまま、わたしはまるでロボットみたいに目の前にいる雨月をじっと見据えた。
 ……一緒に住むって、なんで。
 
「わかんない? おれ、プロポーズしてるんだけど」
 
 フリーズしているわたしに、雨月はだめ押しのひとことを放つ。
 わたしの両目を覗き込むように、雨月が顔をさらに近づけてくる。ぱちぱち、と二回のまばたきをきっかけに、やっと動くことのできるようになったわたしは、驚きのあまり変な声を出しながらそのまま後ろ向きに倒れ込んだ。わたしの手を握っていた雨月も一緒に倒れたため、意図せず彼に組み敷かれる形になる。
 ひええ。えっ、いやちょっと待って。なにこの格好。近い近い近い。クレープを持っているせいで抵抗できないし。ていうかクリームついちゃうから、服に。ただでさえ頭の中がぐるぐるしているのに、こんな状況じゃ余計に混乱するってホントに!
 
「ままま待って落ち着いて深呼吸して目を覚まして!」
「落ち着くのも深呼吸するのも目を覚ますのも晴花のほうだよ。おれはちゃんと状況を把握してるから」
 
 そうですねそうですよねそうでなきゃおかしいもんね!
 ……うん、ちょっと一回落ち着こう。だって聞き間違いかもしれないし。そうだよね、これはきっと聞き間違いか夢……。
 
「言っておくけれど、聞き間違いでも夢でもないから。おれは今、真剣に晴花にプロポーズしてる。逃げずにちゃんと考えて、晴花」
 
 ひい……。心の中をすべて読まれてる。現実逃避すら許されない。
 わたしはこくりとつばを飲み、震える声で問う。
 
「プ、ププ、プロポーズってなに、どういうこと? わたしと雨月のあいだには言葉の意味に重大な齟齬があるのかなーなんて……」
「齟齬なんてないよ。プロポーズはプロポーズ。結婚しようって言ってんの」
「けっこ……い、いや、いやいや。いやいやいや! やっぱりおかしいよ! 絶対絶対おかしいよ! 雨月なに言ってるのっ? だって、け、結婚とか……まだ早すぎるでしょう、わたしたち付き合ってもいないのに!」
「じゃあ付き合おう」
 
 呼吸をするように自然と出てきたその言葉に、わたしの瞳はさらに大きく丸くなる。あまりにも衝撃的すぎるせりふの連続に、もう声も出なかった。
 口をぱくぱくさせながら無言の叫びをあげるわたしに、雨月は真剣な表情を浮かべて言う。
 
「ずっと好きだった。晴花」
 
 いつも前髪の奥に隠れていた、どこまでもまっすぐで、強いまなざし。そんな瞳に囚われながら、伝えられるひとつの言葉。――好き。
 
「小さいころからずっと見てきた。晴花のことだけを、ずっと想ってた。誰よりも好きだって、毎日毎日考えてた」
 
 鼓膜を震わせる、低く響く声。大人の、男の人の声。
 熱を持つ頬に、そっと冷たいてのひらがあてがわれる。あんなに小さかった雨月の手は、今ではわたしより大きくて、骨ばっていて、もうすっかり男の手になっていた。もう子どもじゃないのだと言われているようで、まるで水の雫が落ちて滲むみたいに、胸の中にじわりと熱がはらむ。
 
「晴花は?」
「……わたし……」
「うん。晴花は、おれをどう思ってる?」
 
 それから一拍置いて、
 
「聞かせて」
 
 優しくそう問われれば、もう逃げることなんてできない。観念するしかないようだった。
 ほう、と息を吐き、雨月から視線を外す。
 
「……ずるいよ、雨月……」
 
 掠れる声でささやいた。
 
「わたしって、どうしていつもこんななのかな……。わたしのほうがお姉さんなのに、全然ちゃんとできてない……。本当はわたしが引っ張っていかなきゃいけないのに、気づいたら全部雨月に頼りっぱなし。学校で過ごしてるときも、文化祭のあとのあのときも……今だって、そう」
 
 視線を合わせずに、胸の中にあるものを全部全部吐き出していく。
 顔をそむけているからか、雨月の呼吸の音がすべて耳に入ってくる。表情をたしかめなくても、雨月のその息遣いで不安になっていることがわかった。わたしが急にこんな話をしはじめたから、雨月は心配しているのだろう。
 それでもわたしは、言葉を続ける。
 
「……みんなに責められてるわたしを雨月がかばってくれたとき、本当はとってもうれしかったの。雨月のおかげで、またみんなの前に立つことができた。雨月がいなかったらわたし、きっとあのまま、二度と教壇の上にのぼれなかったと思う。見たくないもの、知りたくないものから、ずっと逃げてきたの。本当にだめだね、わたし……」
「……晴花、おれは」
「でもね」
 
 ゆるりと首を横に振る。人差し指を立てて、そっと雨月のくちびるに当てた。彼の言葉を遮って、わたしはしっかりと雨月を見据える。
 
「わたしだって、言うときはちゃんと言うよ。雨月だって勇気を出してくれたんだもん。大丈夫。もう、逃げたりしないから」
 
 宣言してから、静かに深呼吸をする。
 ……うん、大丈夫。
 今ならきっと、ちゃんと言える。
 
「雨月っ!」
 
 自分自身に気合いを入れるように、強く声を張り上げて雨月を呼ぶ。突然大声で名前を呼ばれた雨月は肩をびくりと揺らした。驚いたように目をみはり、わたしのことを猫のような丸い瞳で見てくる。
 こくりとつばを飲み込んで、深く深く息を吸う。そして、真剣な表情で話し出す。
 
「わたしは年上らしくないし、かわいげもないし、雨月にいろいろ迷惑かけてばかりで、こんなどうしようもないわたしだから、知らないあいだに雨月をきっといっぱい困らせたり呆れさせたりしちゃってると思う。……それでもっ」
 
 ……そう。それでも。
 
「わたし、雨月の近くで笑っていたい」
 
 笑顔でしか支えることのできないわたしができることは、たったそれだけ。
 だから、雨月の隣にずっといたい。誰よりも、なによりも、雨月のそばで笑っていたい。
 ……そう思うのは、きっと。
 
「雨月のことが、好きだから」

 そう口にした瞬間。
 ぐしゃぐしゃに絡まっていた糸がすっと解け、その中にずっと縛りつけられ動けずにいた、たったひとつのたしかな想いが、胸にすうっと溶けていく。
 遅くなってごめんね、雨月。わたし、やっとわかったよ。 
 ――わたし、雨月のことが、好き。大好き。
 
「……ふはっ」
 
 目を丸くする。
 え、ちょっと、待って。これ以上にないくらい一生懸命伝えた想いなのに、雨月が急に吹き出したんだけど。どういうこと。
 
 雨月は体を起こしてすぐ、わたしから顔をそらして口もとを押さえた。どうやら必死に笑いを噛み殺しているらしい。……こらえきれずに肩が細かに震えているけれど。
 
「えっ、な、なになに、なんで笑うの? わたしなにか変なこと言ったかな!」
「くく……いや、変なことじゃなくて……」
 
 わたしも思わず起き上がり、あたふたしながらそう問うと、雨月は涙目になってわたしの手もとを指差した。
 
「それ。クレープ持って必死に告白してるの、なんだかシュール」
「あっ? う、わわっ、こ、これは、その……!」
 
 完全に忘れていた。視線を落とすと、手の熱でクリームのとけた食べかけのクレープが、張りがなくなりしんなりとしている。慌てて背中に隠したけれど、もう遅い。
 ああ、恥ずかしい。自分の想いを伝えるだいじなときに、どうしてわたしってこうなのだろう。これじゃあ伝わるものも伝わらない。わたしのバカ。
 
「うう……また失敗しちゃった……」
「いや、晴花はそれでいいんだよ」
「え……?」
「かわいいよ、晴花」
 
 くい、と腕を引っ張られ、腰を強く引き寄せられる。目をみはった先には、熱をはらんだ雨月の瞳。
 
「そういうところも、好き」
 
 呼吸をする間もなく、またくちびるを塞がれてしまう。抵抗する暇もないくらい、あっというまのキスだった。
 宝石を盗む手慣れた怪盗みたいに一瞬のうちにくちびるを奪われて、わたしはいつも呆然としてしまう。雨月は余裕な表情で自身のくちびるをちろりと舐めた。それから口もとに妖艶な笑みを浮かべる。
 
「甘い」
 
 はっとして、思わず彼から目をそらす。
 そういう顔で、そういうことを言わないでほしい。……どんな反応をすればいいのかわからなくなってしまう。

「も、もう、やめてよ……」
「甘いのはクレープかな。それとも晴花?」
「クレープに決まってるでしょ……」
「そんなのわかんないだろ。もう一回確かめてみてもいい?」
「たし……え?」

 わたしの手から、すっと食べかけのクレープを抜き取ると、そばにあったテーブルの上に置く雨月。それから肉食獣が獲物を狙うときのように、こっちをじいっと見つめながらじりじりとにじり寄ってくる。

「ひい……。雨月、なんか変だよ。どうしたの?」
「おれもわかんない、けど、感情のブレーキが効かなくなってることはわかる。全部晴花のせい」
「ええ……ど、どういうこと……?」
「晴花はおれを大胆って言うけど、晴花だってじゅうぶん大胆だよ。いつも平気な顔でおれの部屋に入ってくるけど、どういうつもり? 我慢するこっちの身にもなってよ。おれ、これでも一応、男なんだけど」

 どういうつもりって、なにも考えてなかった。
 幼なじみだから、気心知れた仲だから、変なことになるなんて想像もしてなかったし。
 ……でも、雨月はずっと我慢してたの?

「おれがなにもしないなんて、考えが甘いね、晴花」
「え、でも、だって、さっき、したいのはキス以上のことじゃないって……」
「ん。前言撤回。キス以上のこと、したい」
「ええっ? やだ、そ、そんな、待ってよ雨月、ねえ、待っ――」
「無理。待てない。諦めて」

 にべもなく、きっぱりと断られてしまう。
 秋の空気はひんやり冷たいはずなのに、この部屋の中だけはまるで真夏の夜みたいにむせ返るほど暑い。
 クレープのチョコレートとクリームが熱でどろりと溶けて、テーブルの上で混ざり合うのを見ながら、あれはもう食べられないな、なんて――くらくらする頭で考えて、幼なじみの腕の中にそっと抱かれた。


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