
《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第1章 ひとりぼっちのカタツムリ 第1話 いわゆる問題児
第1章 ひとりぼっちのカタツムリ
第1話 いわゆる問題児
幼い頃から教員に憧れていた。
先生と呼ばれたかった。ひとりでも多くの子どもを明るい未来に導けるようなおとなに憧れていた。
教壇に立ち、生徒たちに勉強だけではない大切なことも教えていく。うれしいことも悲しいことも分かち合いながら過ごしていく。
ずっとずっと追い続けてきた、憧れの夢。
――そんな夢が、今日、叶う。
「みなさん、初めまして! 今日からこのクラスの副担任をつとめます、水嶋晴花です! よろしくお願いしますっ」
緊張は相手にも伝わるから、おだやかな気持ちでつねに笑顔を忘れないこと。笑っていれば運が向く。大丈夫、あなたの最大の武器は、その素敵な笑顔だから。
……これは、今朝家を出るときに母に言われた言葉。
笑顔、笑顔、笑顔……。うん、大丈夫。ぎこちないけれど、わたし、ちゃんと笑えてる。
深呼吸して、ゆっくりと教室を見渡す。期待、不安、興味に、不信……思い思いの瞳でわたしをじっと見つめてくるのは、まさに今『子ども』から『おとな』へと羽化する瞬間の、多感な時期の生徒たち。
わたしにとって初めての教え子たちは、高校三年生だった。
高校の最後の一年間を共に過ごすことになる。きっとすべてが思い出になる年だ。責任重大。
「よーし、それじゃあ水嶋先生に出欠確認をしてもらうぞー。おまえら、でかい声で返事しろよー」
隣に立っていた担任の勝馬先生が言う。
黒いジャージを着て腕まくりをするその姿は、まさに体育教師っぽい。
「さ、水嶋先生、よろしくお願いします!」
勝馬先生がクラス名簿を渡してきた。
わたしはそれを受け取り、こくりとつばを飲む。
これが夢にまで見た出欠確認……。
ああ、ついにこのときが来た!
「そっ、そそそれじゃあ、ひとりずつ名前を呼んでいきますね……!」
緊張のせいで、声が裏返ったり震えたりしている。すると、すぐに誰かが「センセー肩の力を抜いてくださーい」と茶化してきた。くすくすと押し殺した笑い声があちこちから聞こえてくる。
う……た、たしかに。このままじゃ顔が立たない。しっかりするのよ、水嶋晴花。わたしは先生なんだから、堂々としていればいいんだから……!
こほんとひとつ咳払い。気を取り直して、今度はしっかりと胸を張り、生徒たちの名前を出席番号順に呼び始めた。
最初こそ緊張したけれど、確認作業が始まってしまえばすぐに慣れる。わたしの点呼に応えるみんなからの返事が聞こえるたびに、やっと念願の夢が叶ったのだと実感する。……思わずうるっとしたことは、恥ずかしいから内緒だ。
出欠確認は、リズムを刻むようにスムーズに進む。
しかし、半分ほど進んだとき……ある生徒の名前を呼んだところで、とうとう点呼につまずいてしまった。
名簿から視線を上げる。数回まばたきをした。
ええと……こういう場合は、どうしたらいいのだろう?
「夏野くーん」
何回呼んでも。
「夏野くーん?」
何回呼んでも。
「……ええと、あの、夏野くん……?」
……このとおり、返事がないのだ。
もちろん、この生徒は欠席しているわけじゃない。彼はちゃんと学校に来ていて、きちんと席にも着いていて、なんなら姿勢正しくじっとこちらを見つめている。……そこにいるのに、わたしを無視している。
こういうことはよくある話だ。みんながみんな素直に先生に従うわけじゃない。だけど、早速これだと……なんだか、ちょっとへこむ。
隣の勝馬先生に目をやると、呆れ顔で溜め息をついていた。
ううん、と声作りをして、もう一度だけその生徒の名前を呼ぶ。すると、彼は諦めたように小さな溜め息をひとつ吐き、それから教室のいちばんうしろの席からぼそりと、
「………………はい」
たったひとこと、耳を澄ませていなければ聞こえないようなどこまでもか細い貧弱な声で、たっぷりと間を置いてから短い返事をした。
夏野くん。見るからに影の薄そうな男の子。陽の光に当たることを知らない白磁の肌には、漆黒の学ランがよく映える。染めたことのないような黒い髪は、窓から入る風でさらりと揺れて……目にかかるほどの長い前髪から、物憂げな眼差しが覗えた。
目が合うと、彼はむっと顔をしかめる。
溜め息をつきたいのはこっちのほうだ……なんて、心のなかでぼやいても声に出して言えないわたしは、代わりにふにゃりと困った笑みを浮かべた。
「……夏野くん、返事はもっと大きい声でね」
それに対する返事なんて、なおさら返ってくるわけもない。ただふいと顔をそらされるだけだったので、つい苦笑いをこぼした。
新任初日にあんまりこういうことは言いたくはないのだけれど、どうしても思ってしまう。
……こういうのが俗にいう『問題児』なのだろうか?
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