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《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」番外編 春を待つ(後編)

番外編 春を待つ(後編)

 おれの頭の中に、ふと疑問が浮かぶ。
 はたして晴花は、おれを男として見てるんだろうか。
 
 おれが気持ちを伝えたあの日から、晴花はなんにも変わらない。いつもどおり、あのとぼけた調子を保ってる。好きだと打ち明けてくちびるまで合わせたのに、次の日にはけろっと忘れてるんだ。あれは夢だったのかと疑うほどには、いつもと変わらない日常を過ごしてる。目が合ったら頬を染めるくらいしてくれてもいいものを、なにもなかったみたいな顔をしておれに話しかけてくる。人の気も知らないで、他の生徒に向けるのと同じ笑顔でおれに接する。そこに腹が立つ。
 
 そんなにおれとのキスは印象が薄かっただろうか。そりゃあ、キスをしたのはあの日だけだ。文化祭以降、ふたりきりになれるチャンスはなかったし。でも、だけど、キスしたことを忘れはしないだろう。あの晴花でも、さすがに。結構大きな出来事だったと思うけど。少なくとも、おれの中ではそうだった。
 
 こんなの、おればかりが一方的に好きみたいだ。晴花にとって、あのときのキスやハグは一時の気の迷いだったのかもしれない。高校を卒業するまで待つだなんて言ってたけど、今となってはそれも本当かわからない。こんな宙ぶらりんな状態でおあずけをくらい続けるなんて、いくらおれでも我慢の限界だ。

 待って待って待ち続けた先にあるのが結ばれない未来にならないために、どうにかして晴花におれを意識させたい。そうしなくちゃいけない。おれの想いに気づいてもらうには、多少強引な方法を使うことになっても致し方ないのかもしれない。
 だって、あんなに本気で気持ちを伝えたのに、晴花の中でのおれは止まりだとしたら――おれはもう、どうするかわからない。 
  
「晴花」

 名前を呼び、その細い手首をつかむ。
 突然触れられた晴花は、びくりと肩を揺らして目をまたたいた。
 
「え? な、なに……雨月、どうしたの?」

 どうしたんだろう。
 それが自分でもよくわからないんだ。
 ただ、なにかに焦っていることだけはわかる。痛いくらいに。
 
 晴花の腕をつかんだまま一歩距離を詰める。すると晴花は、危険を察知した小動物みたいに、顔をひきつらせてそっと後ずさりした。
 首をかしげて、もう一歩足を前に出す。やっぱり晴花は後ずさる。おれとの距離を一定に保とうとしている。

「なんで逃げるの」
「だ、だって、雨月の顔が怖いから……」

 そうか?
 おれは晴花に触れていないほうの手で自分の頬をぺたぺたと触る。それから少し考えて、首を横に振った。
 
「怖くないだろ、普通だよ」
「普通じゃないよ……」
「普通だって。よく見て」

 顔を覗き込む。
 ひゃ、と小さな悲鳴をあげて、晴花は大きく後ろにのけぞった。背中が廊下の突き当たりの壁にぶつかる。逃げも隠れもできない晴花はなすすべなく、追い詰められた被食者みたいに体を震わせながら怯えた目でおれを見るだけだ。窮鼠は猫を噛めない。

「ど、どうしたの? 雨月、なんか怒ってる……?」
「怒ってはない」
「でも、怖い顔してる……」
「じゃあ怒ってる」

 晴花は「どういうこと……?」と混乱した表情を見せる。
 晴花、ごめん。おれも、自分で自分がどうしたいのかわかってないんだ。晴花を怖がらせたいわけじゃないのに、体が勝手に晴花を追い詰める。……ひどい方法で想いに気づかせようとしている。
 
 つかんだ手首を壁に押し当てた。
 晴花はあきらかにうろたえる。
 体を震わせながら、ひくりと咽頭を鳴らす。

「やだ……雨月、やめて……っ」
「やめない」
「ま、待って、離して……!」
「離さない」

 みるみる晴花の目に涙がたまっていく。
 胸の奥が、ずき、と痛む。後悔と罪悪感で押しつぶされる。
 本当は、晴花を泣かせたくなんかない。ずっと笑っていてほしい。そう思ってるはずなんだ。それなのに。
 ……心と体がばらばらになっていて、すごく苦しい。

「変だよ、雨月……」
「そうだな」
「なんかおかしいよ……」
「おれもそう思う」
「じゃあ、なんで……」
「晴花のせいだろ」

 きっぱりと言い切ると、晴花は潤んだ瞳を丸くさせた。きょとんとした顔で、おれを見る。

「わたしのせい……って」
「晴花のせいだ、全部。……晴花が、おれを意識しないから」

 顔をしかめる。
 そんな自分勝手で子どもみたいな理由で好きな人を泣かせるなんて、おれはなにをしてるんだろうと思う。誰よりも大好きで大切にしたいのに、優しくできないなんて最低だ。だけど、行き場のない想いがつらくて、苦しくて、どうしようもなくて……こういうふうにしか、晴花に伝えることができない。
 
 ばつが悪い。不器用な自分が嫌になる。
 目を合わせられなくて、ふいと横を向いた。 

「……おれがあんなに本気で気持ちを伝えたのに、なんで晴花は普通でいられるんだよ。全然なんとも思ってない態度でおれに話しかけてくる。おれの告白なんてなかったことになってる。晴花にとって、おれってなに? ただの幼なじみ? ただの生徒? おれがいくら好きだって言っても、晴花は顔色ひとつ変えずに平然と過ごしてるだろ。どういうつもりだよ。どうしてそんなことができるんだ。……おれは、晴花を、こんなに想ってるのに」

 本音をひとつ吐き出せば、もう止まらなくなる。次から次へ滔々と溢れ出す想いことばを晴花にぶつける。……これだけ本気で伝えても、おれの気持ちはきっとその半分も届いていないんだろうけど。
 悔しくて、もどかしくて、手首をつかむ手に力を込めた。晴花の白い喉がこくりと上下する。

「……おれ、晴花の気持ちがわかんない。おれはこんなに強く想ってるのに、どうして晴花はおれをなんとも思ってないんだ。あのときおれを好きだって、近くで笑ってたいって言ってくれたのはうそだったのかよ。そんなふうなら、おれはもう、いっそのこと強引にでも晴花のことを――」
「そんなわけないでしょ……!」

 絞り出すように、晴花がかすれた声をあげた。
 おれは下げていた視線を上げ、おもむろに晴花を見やり、それから目をみはった。
 ……そこには、くちびるを震わせて、顔を真っ赤に染めた晴花がいた。

「意識してないわけないでしょ……⁉ 意識してるよ……意識しまくりだよ……! なにもわかってないのは雨月のほうだよ! 自分の気持ちに気づいて、雨月の気持ちも知って、もう普通でいられないから、無理に普通を演じてるの! 平気そうに装ってるの! ホントは全然平気じゃないのに、必死にがんばってるんだよ! そうでもしないと、わたし、雨月と目も合わせられないんだから……!」
「……晴花?」
「わたし、おかしくなっちゃったんだよ……。あの日のこと……キスしたときのこと、何度も思い出しちゃうの。学校で雨月の姿を見るたびにどきどきして、胸が苦しくて、全然仕事が手につかなくて、それでも先生をしなきゃいけなくて、家に帰ってからも考えるのは雨月のことばかりで……もう、もう……本当に大変なんだからっ!」

 ぽかんとする。
 涙をぽろぽろとこぼす晴花を、呆然と見つめる。
 いや、もう、なんていうか……知らなかった、全然。だって、そんなそぶりはいっさい見せてなかったから。てっきり晴花はおれが高校生であるかぎり見向きもしてくれないんだとばかり。それなのに。 
 あの晴花が、おれを見てどきどきしてた?
 ……ちゃんと、ずっと意識してくれていた?

「……そうだったの?」
「そうだよ……!」

 つかまれていないほうの手で、必死に涙を拭う晴花。
 ひっく、としゃくり上げながら言葉を続ける。

「一生懸命気にしないようにしてたけど、やっぱりだめなの……。雨月にはあんなに我慢してって言ったのに、雨月が卒業するまであと何か月って指折り数えてるんだよ……。笑っちゃうでしょ? 我慢できてないのはわたしのほう。これ以上はだめだって言ったのは、わたしなのに。……本当、先生失格だよ。なにしてんだろ、わたし……」

 息を吐き、晴花はゆっくりと視線を上げる。
 涙に濡れた瞳をおれに向けて、頬を染めながら困った表情でつぶやいた。

「……お願いだから、これ以上わたしを苦しめないで……」

 胸の奥が、きゅううと締めつけられる。こくりと喉を鳴らしてつばを飲み込んだ。
 知らなかった。おれが、無意識のうちに晴花を苦しめてしまっていたなんて。人の気も知らないで、なんてよく言えたもんだ。鈍感なのはおれのほうじゃないか。今までなにを見ていたんだろう。
 こんなに、ずっと――晴花しか見えていなかったはずなのに。

「ごめん、晴花」
「……わかってくれた……?」

 うん、と小さくうなずく。それから、手首をつかんだ腕をくいと引いた。晴花の小さい体を引き寄せて、その腰に手を回す。空気すら入るのを許さないほど、体を密着させる。

「晴花、キスしていい?」
「……へ?」

 至近距離でぶつかる視線。
 晴花はぱちりとまばたきをひとつ。それから言葉の意味を反芻するように数秒置いて、ぶわっと顔を赤くする。

「な、なな、なに言ってるの……! いいわけないでしょっ! わたしの話聞いてた!?」
「聞いてたよ」
「じゃあなんでそんな、き、きす、なんて言うのっ」
「したくなった」

 晴花が悪いんだ。あまりにかわいいことを言うから。そんなの、もう、めちゃくちゃにしたくなるに決まってる。キスくらいは許してほしい。それ以上は求めないから。
 
 おれの腕から必死に逃れようともがく晴花を強く抱き寄せる。体を強張らせておとなしくなった晴花に、そっと顔を近づけた。
 逃さない。離さない。
 だって、前に言っただろ。晴花は、おれのものだって。
 
 晴花の瞳が揺れる。
 おれを、じっと見つめている。
 
「晴花、好きだよ」
「……そういうこと、言わないで……」
「いやだ、言いたい」
「……だめだよ。我慢、できなくなるから……」

 ふ、と笑う。
 熱い頬にてのひらを添えて、さらさらの白い肌を指の腹で優しく撫でる。
 ほんの数分前までは、あんなに不安で心がぐちゃぐちゃに乱れてたのに、今では驚くほどに気持ちが凪いでいる。晴花に触れただけでこんなにも満たされる。
 つくづく思う。おれって男は、ずいぶんとちょろい。

「いいんだよ、そんなの」
「……でも」
「我慢なんてしなくていいんだ。おれも、晴花も」

 しっかり目を見て伝えた「お互い想い合ってるんだから」というだめ押しの一言で、晴花は観念したようだった。
 涙に濡れたまつ毛を震わせて、そっと瞳を閉じる。それが晴花の許しの合図だった。

 我慢しなくていいとは思う。だけど、晴花が苦しい思いをするのはいやだ。その気持ちを天秤にかけたとき、おれは自分が待つほうが何倍もましだという結論に至った。
 大丈夫。晴花の気持ちを知ることができたから。全然待てる。なんてことないんだ。たった数か月くらい。

 桜の蕾が膨らみはじめる頃、制服が必要なくなったら、そのときは思う存分抱きしめよう。
 晴花が「もう飽きた」って言うまでする。
 何度だって大好きだと伝える。
 だから今は、キスは一度だけに留めておこう。

 生まれて初めて春を待ち遠しく思いながら、おれは晴花とそっとくちづけを交わした。



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