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《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第4章 ひとひらの葉 第1話 覚えておいてね
第4章 ひとひらの葉
第1話 覚えておいてね
「ねえ、夏野くん。教えてよ」
雨月と屋上でお昼を一緒にするようになって数日がたったある日のこと。
先に行っているであろう雨月のもとへと急いで屋上への階段を駆け上がると、少しだけ開いている鉄製の扉の隙間から誰かの声が聞こえた。
思わず扉を押し開ける手を止め、息をひそめる。
「なんで黙ってるの? どうしてか言えない? 言えないようなことを、ふたりでしてるってこと?」
まだ幼さの残る、鼻にかかった女の子の声だった。
めずらしいこともあるものだと思った。普段の昼休みの屋上には、いつも雨月しかいなかったはずだ。少なくとも、わたしが屋上に足を運ぶようになったここ数日のあいだでは、他の生徒の姿はまだ一度も見かけていなかった。
だけど、たしかに今、女の子の声が聞こえた。しかも「夏野くん」と雨月の名前を呼んでいる。この学校に通う夏野という姓の生徒は、雨月しか存在しない。だから、少女の言う「夏野くん」というのは、雨月のことで間違いなかった。
つまり。
あの雨月が、女の子とふたりきりで、誰もいない屋上で会話をしているのだ。
うそみたいな話だと思ったけれど、今そこで起こっていることは現実だ。……現実なのかな。現実だよね。うん、頬をつねって痛いから現実なんだと思う、きっと。
本当にめずらしい。ありえないと言ったほうが正しいかもしれない。雨どころか雪……ううん、矢でも降ってくるんじゃないかな。天変地異の前触れかも。
なんだかそわそわする。気になる気持ちが抑えきれない。 誰が、どんな用件で、雨月に声をかけているのだろう。
だって雨月が学校で誰かと話をしているところなんて、今までに一度だって見たことがない。点呼で返事をするのもためらうような子なのに、異性とふたりきりで会話するなんて。
信じられない。
というよりは……なんだか、信じたくない、ような。胸の奥がもやもやして、少しだけ苦しくなる。ちょっとだけ、嫌だなって思う、かも……。
と、そこまで考え、はっとして、自分の気持ちを否定するように慌ててかぶりを振る。
いやいやいや、ちょっと待って。わたしってば、なにを言っているの。これはとても喜ばしいことだ。雨月の高校生活が色づくチャンスになるかもしれない。これをきっかけに、雨月にも友だちと呼べる人ができるかもしれない。それ以上の関係になる可能性だってある。もとはといえば、雨月がひとりぼっちなのを心配して手を焼いていたのだ。いい関係になれるような人ができれば、わたしだって雨月を気にしなくてもよくなるんだから。
「…………」
でも、だけど。
ああ、だめだ。どうしても気になっちゃう。
相手のこと。会話の内容。
……少しくらいは、聞いてもいいよね?
こくりと喉を鳴らして、扉の隙間からそろりと覗いて様子をうかがう。盗み聞きはいけないことだとわかっていても我慢できなかった。
見えたのは、屋上の中腹あたりに、ふたつの影。
雨月と、女の子がひとり、そこにいる。わたしに背中を向けているため、その子が誰なのかはまだわからない。
「他の生徒の目を盗んで、屋上でこそこそと逢引なんて……えっち」
女子生徒の言葉に、雨月は露骨に不快感を露わにした顔をした。それから、ため息をつき自身の首筋に手を当てる。
「べつに……言えないわけじゃない。言う必要がないだけだ。あんたには関係ない」
「隠してるつもり? それか、かばってるのかな。そんなことしても、むだだよ。全部知ってるんだから」
彼女は細く白い指で、隣の校舎を指さした。
「ほら、あそこ……向こうの棟にある美術室。見えるでしょ? あたし、いつもそこでひとりお昼を食べてるんだ。屋上を見ながらね。夏野くんも毎日ひとりでお昼を食べてるでしょ。あたしと同じひとりぼっち仲間だから、話したことがなくても勝手に親近感持ってたの。だから、そこから毎日、夏野くんを眺めてた。一年生のときからずっと」
彼女は手を静かに下ろす。
そして、再び雨月に視線を向けた。
「……でも最近、夏野くんはひとりぼっちじゃなかった。見てたんだよ。夏野くんが水嶋晴花と昼休みを一緒に過ごしてるところ。ねえ。仲よさそうにふたり肩寄せ合って、一体なにをしてたのかな」
わたしの名前が出された瞬間――心臓がどくりと跳ね上がった。
知らなかった。ずっと見られていただなんて。いや、見られてまずいものではないのだけれど。
……それでも、女子生徒のおどして責めるような口調のせいで、胸の奥がひどくざわつく。胸が詰まる。空気が重苦しい。きっと雨月も、同じように感じているはずだ。
視線を移すと、案の定、雨月は眉間にしわを寄せて、むっとした表情を作っていた。
「……べつに隠すつもりもないけど。なにを勘違いしてるのか知らないけど、あの人とはただ一緒にお昼を食べてるだけ」
「それだけじゃないよね。見てればわかるよ、すごーく仲よさそうだもん」
「仲よくなんてない。……普通だよ」
「ごまかすところがますます怪しいなぁ」
くすくすと笑う彼女。
完全に雨月をからかっている。
「あたしね、夏野くんが笑ってるところ、初めて見たの。いつも無表情で感情のなさそうなあの夏野くんでも、あんなにうれしそうに笑うんだって知ってびっくりした。深い仲じゃなければ、あんな顔は見せない。……そうでしょ?」
雨月は今にも舌打ちをしそうな苦々しい顔になる。
ここまで来れば、なんとなくわかる。女子生徒はどうやら、わたしと雨月の関係を怪しんでいるらしい。
だけど、怪しまれることなんてなにもない。わたしと雨月はただの教師と生徒だ。毎日屋上でなにをしているのかと聞かれたら、雨月が今答えたように、ただお昼を食べているだけ。幼なじみだから……親しく見えてしまうだけ。
それでも雨月は、わたしとの関係を言わない。わたしを思って、そうしている。幼なじみと伝えれば、きっとわたしに迷惑がかかると思っているのだと思う。
飛び出して行きたかった。雨月が言えないのなら、わたしが言わなくてはいけない。彼女に「違う」と、「わたしと彼はあなたが思うような関係ではない」と、はっきり伝えたかった。
……でも、盗み聞きをしているこんな状況では堂々と出ていけない。そんなことをしたら、なおさら怪しまれそうだ。
女子生徒は直立したまま雨月を注視していた。
その視線にいらだちが募った雨月は、強い口調で言う。
「なにが言いたいんだよ、さっきから。……ていうか、」
一拍置くと、さらに眉根にくっきりとしたしわを刻み、問うた。
「あんた、誰なんだ?」
味のなくなったガムを吐き捨てるように口にした言葉は、どこまでも冷たくて、それでいて乾いていて、まるでドライアイスみたいだった。
しかし女子生徒は、そんな雨月の素っ気ない態度に気を悪くするわけでもなく、笑い飛ばすわけでもなく、あくまで淡々とした様子で続ける。
「……やっぱり夏野くんって不思議な人。本当に他人に興味がないんだね。一年生のころからずっと同じ教室にいるのに、クラスメイトの名前すら知らないなんて。あたしじゃなかったら一発くらい叩かれてるかも」
風にはためくセーラー服の袖から生えた、細く、か弱く、白い腕が、静かにすっと上げられる。そして彼女は、漆黒の髪をすくい耳にかけながら静かな声で、まるで呪文を唱えるように言った。
「似鳥です。似鳥葉。これから夏野くんといちばん親しい関係になる子の名前だよ。覚えておいてね」
あ、と思わず声を漏らす。名前を聞いてはっとした。
そうだ。わたし、この声を知っている。
これは自分の受け持つクラスの生徒――似鳥さんの声だ。
頭の中で教室での彼女を思い浮かべる。その姿は、教室の端の席にちょこんと座り、誰とも喋らずじっとしているというもの。今はこんなに強気な姿勢を見せているけれど、彼女もまたとてもおとなしく控えめな性格で、雨月ほどではないけれど、あまり友だちの多くない子という印象だ。その背中は雨月の姿とリンクするようだった。
……でも、どうしてそんな子が、こうして雨月に声をかけているのだろう。
ふたりの会話がもっとよく聞こえるように、気づかれない程度に扉を開いて顔を出す。
名乗った彼女に対して、雨月の態度はあいかわらず素っ気なかった。
「どうでもいい。おれは他人に興味ないんだ。同じクラスだろうと関係ない。あんたの名前なんて覚える必要ないし、覚える気もない。名乗られても困る」
ドライだ。ドライすぎる。言葉の湿度は0%。雨月の心の湖はからからに枯渇して大地にひびが入っているとしか考えられない。
よく女の子を相手にそんなことを言えるな、と思った。普通の女子なら即泣き出すレベルだ。聞いているわたしだって胸が痛い。雨月の隣に立っていたら絶対に「なんてことを言うんだ」と小突いていた。
……しかし。
「あは。……いいな。すごくいい。そうなの、そういうところなの」
彼女のほうが一枚……いや、十枚は上手だった。
どんなに冷たい言葉を返されても、似鳥さんは傷つくそぶりさえ見せない。それどころか、素っ気ない返しをされればされるほど、その目にははっきりと力がこもり、雨月に深く興味を持つようだった。
なんていうか……これは、その……いわゆる、マゾ、なのだろうか。
「感激しちゃったな。あたし、夏野くんのそういうところを気に入ってるんだ。陰気で、湿っぽくて、誰にも心を開かずに自分の殻に引きこもって周囲を完全にシャットアウトしてる、そんなところを。クラスのみんなが言うように、夏野くんってまるでカタツムリだね。……ううん、自分で行動を起こす分、カタツムリのほうがまだましかもしれない。夏野くんはカタツムリ以下ってことだよ。ホント、最高だな」
皮肉な言葉に隠れず滲んでいく恍惚げな声音。似鳥さんの言ったことは誰が聞いたってけなしているようにしか思えないけれど、もしかしたら彼女にとっては最大級の褒め言葉なのかもしれない。はっきりと「気に入っている」と言っているし。
それでも、さすがの雨月もそんなことを言われる筋合いはないと思ったのか、露骨に不機嫌な顔を見せた。それから相手をじっと睨みつける。
「一応聞いておくけど、嫌味を言うためだけにここに来たわけじゃないよな」
「まさか。ちゃんと伝えたいことがあって来たんだよ」
「だったら早く用件を言え」
雨月が冷たい態度でそう言うと、彼女は「せっかちさんだね」と静かに笑う。雨月はまたむっとした表情を見せた。
「つまりね」
楽しげな声だった。
うしろ姿でもわかる。似鳥さんはきっと今、笑っている。
それから彼女は、すう、と小さく息を吸い、ためらうことなく言った。
「あたし、夏野くんのことが好き」
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