《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第6章 無自覚な恋 第2話 もしかして、
第6章 無自覚な恋
第2話 もしかして、
夏休みが明け、うだるような暑さも少しずつ落ち着き、だんだんと過ごしやすくなってきた。
このクラスを副担任として受け持って半年が過ぎた。長いようであっという間だった。
いつのまにか学校の雰囲気にも慣れて、失敗して落ち込むことも少なくなった。初めは若いパワーに圧されてあたふたしていたけれど、今ではクラスにもなじんで生徒たちの話についていけるようになった。そうしているうちに自分のペースを掴んで、毎授業の点呼もすらすらと進むようにもなった。
そして今日も、出席番号順に生徒たちの名前を呼んでいく。
……もちろん、問題児である彼のことも。
「夏野くーん」
名前を呼んで、一秒、二秒、三秒。
「………………はい」
小さいけれど、遅れてちゃんと聞こえてきた返事。
わたしはにっこりとほほえみ、うなずいた。
「うん、よくできました」
* * *
すべての授業を終えて、帰りのホームルームも終わった。職員室へ戻ろうと教科書やクラス名簿をまとめていると、数人の生徒がこちらに駆け寄ってくる。
「ねえねえ晴花ちゃん! 最近駅前にできたケーキ屋さん、もう行った?」
突然の質問に「ケーキ屋さん?」とつぶやき、まばたきをする。言われてみれば、有名カフェの姉妹店ができたという話は聞いたことがある。
わたしはううんとかぶりを振った。
「まだないなあ。どうして?」
「それがね、そこのケーキがめちゃくちゃおいしいの。五個はぺろっと食べちゃえる! 品のある甘さっていうか」
「そうそう、甘いんだけどしつこくないんだよね!」
ねー、と顔を合わせる生徒たち。へえ、と相づちを打つ。他の子たちも次々に首を縦に振ってそのケーキの思い思いの感想を口にした。そんなにみんなが絶賛するケーキなら、ぜひわたしも食べてみたい。……なんて、そんなことを言ったら、また雨月に「晴花は本当に子どもだな」なんて言われてしまいそうだけど。
「あ、そうだ。甘いと言えばさ」
ふと、ひとりの女子生徒が口を開く。
「晴花ちゃん、最近夏野に甘くない?」
どき、と心臓が跳ねた。
思わず教室の最後列に座る雨月へと視線を向ける。雨月もこちらを見ていた。長い前髪に隠れるふたつの瞳は、確実にわたしのことをとらえていた。
その視線を振り切るように、わたしはすぐに彼女たちに向き直る。
「え? ……そ、そう、かな」
「そうだよー。みんな思ってるって」
「そ、そんなことないと思うけどなぁ……」
「だって夏野が返事しただけで、にこーってするじゃん」
「あー、するする! すっごいうれしそうに笑う!」
「あんな笑顔、夏野にしか見せないよね」
ばくばくと苦しいほどに鼓動が激しく音を鳴らす。
このあいだ似鳥さんに言われた、なぜ雨月だけを特別扱いするのかという言葉を思い出す。
そんなつもりはなかった。けれど、生徒たちは現にそう感じてしまっている。
わたしはこくりと喉を鳴らす。
「私、ずっと思ってたんだけど」
ひとりの生徒が、わたしを見る。
他の生徒たちの視線も、一斉にわたしに向けられた。
「もしかして晴花ちゃん、夏野のこと好きなの?」
すうっと血の気が引いていく感覚。
顔を伏せる。はっきりと動揺していた。自分でもなぜかわからないけれど、そう言葉にされたときにすぐに否定することができなかった。
どうしよう。どう、言おう。
震えるくちびるを噛みしめ、息を飲む。なるべく冷静にかぶりを振ろうとした瞬間、ふいにひとりの生徒がわたしの顔を下から覗き込んできた。
「わっ、晴花ちゃん顔真っ赤!」
ひくりと咽頭が震えた。
今度こそなにも言えなくなった。
「えー、じゃあ夏野のことが好きってマジなのっ?」
「やば、うそでしょ、ホントに?」
「なになに、どうしたの」
「晴花ちゃん、夏野に恋してるらしいよ!」
「は、マジ? うわあ、俺ショックだわー」
「あたしもー。あんなののどこがいいわけ?」
生徒たちが集まり、口々に言う。耳を塞ぎたくなった。
先生らしくなんて振る舞えない。なにが先生らしいのかわからない。怒ったって、笑い飛ばしたって、きっと信じてはもらえない。
……だって、こんなに『好き』の言葉にうろたえているのでは、それはもうその感情を肯定しているようにしか見えないだろうから。
「ていうか晴花ちゃん、先生でしょ? 先生なのに生徒を好きになっちゃうって、どうなの?」
「いやあ、ないでしょ。しかもよりにもよって夏野なんて」
趣味悪いよねえ、と笑う声。
胸が痛かった。胸が苦しかった。雨月が見ているのに、視線をしっかりと感じるのに、それでもわたしは自分のことだけでいっぱいいっぱいで、雨月の気持ちを考えてあげることができない。どう答えるのがいちばんいいのかなんて、今のわたしにはなにもわからない。
曖昧に笑って、言葉を濁して、生徒たちからの話を軽く流しながら小さくうなずいていたら、いつの間にか話しかけてきた生徒たちがいなくなっていた。からかって満足をして帰っていったのだ。最後までずっと自分たちの席でおしゃべりしていた女子生徒たちも、学生鞄を抱えてわたしに手を振ってくる。
「晴花ちゃん、ばいばーい」
陽花ちゃん。ばいばい。
まるで友だちだ。先生の威厳なんてなにもない。
こんなことで生徒たちに冷やかされてうろたえるなんて、わたしは教師失格だ。
……今のわたしは、自分がなりたかった教師像から遠く離れたところにいる。
「晴花」
がたり、と机の揺れる音がした。
はっとし正面に目をやると、椅子から立ち上がった雨月がわたしをまっすぐに見据えていた。
だめ。意識したら、だめ。わたしは先生で、雨月は生徒。それ以上の関係なんてなにもない。深く考えはじめたら、きっときりがない。今よりもっと気にしてしまう。
「……夏野、くん」
雨月は静かにわたしのほうへと向かってくる。前髪のあいだからのぞく瞳が、微かに揺れているように見えた。
教卓の向こう側。教壇の前で立ち止まった雨月は、わたしをしっかりと見つめてきた。体の横でこぶしを硬く握り、くちびるを強く引き結ぶ。
そして、意を決したように、雨月はわたしの名を呼んだ。
「……晴花、おれ」
「――水嶋先生でしょ!」
張り上げた声は、自分でも驚くほどに大きかった。
わたしの声と同時に、びくりと雨月の肩が揺れる。丸い瞳がしっかりとわたしを射貫いた。
たった一瞬だけ見せた、傷ついたような顔。胸に棘がちくりと刺さる。
だけどわたしはそれを掻き消すように、す、と息を吸い込んだ。無理やり作った偽物の笑顔を貼りつけて、あくまで教師らしくつとめる。
「……だめじゃない、夏野くん。わたしのことはちゃんと『水嶋先生』って呼ばなきゃ。わたしは、あなたの友だちじゃない。……先生、なんだから」
ゆっくりと言い聞かせるように言った言葉は、雨月に向けたものだったのか、それとも自分自身に向けたものだったのか。
しん、と静まり返るふたりきりの教室。揺れる瞳を静かに伏せて雨月がうつむく。体の横で握っていたこぶしが、ゆっくりと解かれた。
「……なに、その言い方」
ぽつりとつぶやかれたのは、低く冷たい声だった。
「おれだけがいけないの」
「え……?」
「他のやつらには言わないのに、おれだけが悪いの」
「……そ、そういうんじゃなくて、わたしはただ……」
「むかつく。あいつらには晴花って呼ばせるくせに」
はっとした。
黒髪に隠れた双眸が、鋭い視線をこちらに向けていた。
「……そんなに嫌だったのかよ」
「……うづ……夏野くん」
「おれに当たるほど、ああやっておれを好きだって言われるのが嫌だったんだな」
ずき、と胸が痛む。
違う、とかぶりを振ろうとした瞬間。
雨月がわたしに背中を向けた。そして自分の席においてあった鞄を乱雑に手にすると、教室を出ていってしまう。
「な、夏野くん……っ」
呼び止めようと手を伸ばしたけれど、それと同時に叩きつけるような扉を閉める大きな音に、思わず身が縮こまる。
……ああ、
「……また、やっちゃった……」
わたし、なにをしているんだろう。
ひとりきりで漏れるように吐き出した深い深い溜め息は、寂しいチャイムの音とともに夕暮れの教室に滲んでいった。
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