
《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第4章 ひとひらの葉 第3話 最初から頼んでない
第4章 ひとひらの葉
第3話 最初から頼んでない
かちゃりと扉が閉まる音が響く。
その場に残されたわたしと雨月は、しばし呆然としていた。
だけどこのままぼーっとしているわけにもいかない。
意識して、呼吸をして、わたしはやっと声を出す。
「……なんだったんだろうね、似鳥さん」
「さあ。おれが聞きたい」
「……雨月、キスされてたね」
「うん、された」
雨月はまた思い出したかのように袖で口をぐっと拭う。
「……あれ、おれのファーストキスだったのに」
ずき、ずき、と胸の痛みはまだ消えない。
頭の中で、雨月と似鳥さんのキスシーンが蘇る。
……ああ、なんだろう、この気持ち。
わたし、間違っていたのかな。雨月のために、昼休みを一緒に過ごすという選択は間違っていた? わたしがそんなことを言い出さなければ、こんな未来はなかった? こんなに胸を痛めることも? 雨月がファーストキスを奪われることも?
心の中がもやもやする。胸の奥がぐるぐるする。
いらいらして、ずきずきして、知らない感情が体の奥深くからじわじわと湧き上がる。なんで、どうしてと、そればかりを考える。
行き場のないこの思いは、どうやって片づければいいのだろう。そもそもこれは、誰に向けての思いなのだろう。誰にいらだって、誰のために傷ついて、誰のせいで悩んでいるのだろう。
考えても、考えても、答えになんて辿り着かない。なにもかもがわからない。考えることさえもつらい。
……もう、なんにも考えたくない。
「……挑戦状だって」
「うん」
「わたし、敵視されてる」
「みたいだね」
ぐ、と体の横でこぶしを握る。真っ黒い渦が胸の中でどんどん大きくなっていく。吐き出したいのに、吐き出し方がわからない。誰かに受け止めてほしいのに、誰にもなにも知られたくない。
矛盾している思いを胸の奥に隠したわたしは、せいいっぱいの笑みを浮かべた。
「……もう、やだな。雨月、全然空気なんかじゃないじゃん」
今の状況に似合わない、明るく振る舞ったその声は、自分でもあまりにしらじらしいと思った。
不自然さを感じたのか、雨月は顔をしかめる。
「空気だよ。晴花だって知ってるだろ。おれのクラスでの雰囲気」
「でも似鳥さんはちゃんと雨月を気にかけてくれてたよ。ずっと見てたって言ってたもん」
「なにかの間違いだ。あんなの信じられない。おれはずっと空気だった」
「違うよ」
冗談を言い合っているときみたいに、笑い飛ばすように言う。
「今だって、こうして見てくれる人がいる。気にしてくれる人がいる。それだけで雨月は空気じゃないよ。……全然、違うんだよ」
笑顔でそう言うわたしを、雨月はなぜか目をみはって見てきた。驚いたような、困惑しているような……そんな複雑な表情でわたしを見る。
どうしたの? と問う間もなく、雨月はわたしの顔を覗き込んだ。
「……晴花」
わたしの名前を呼んで、そして。
「なんで泣いてるの」
え、と声が漏れる。
頬になまあたたかい雫が、つうっと伝って落ちていく。
「へ? ……あ、あれ。なんで、わたし……」
泣いているんだろう。
そっと頬に手を触れると、ぽたぽたと涙が落ちてくるのがわかった。
こうして一度涙を意識してしまえば、もうこらえることはできなくなる。自分の意志とは裏腹に、堰を切ったように次々と涙が溢れ出す。止めようと思っても、そう簡単には止められない。涙の雫がコンクリートに当たって弾ける。
「晴花、晴花。どうしたんだよ」
急に泣き出したわたしを、雨月は意味もわからないまま必死になだめようとする。名前を呼んで、背中をさすって、髪を撫でてくれる。そんな無自覚な優しさが痛かった。雨月に触れられれば触れられるほど……余計につらくなる。
「いい、もういいから」
「いいって……だって、泣いてるじゃん」
「違う、違うの。これは……そう、うれし涙。うれし涙だよ。雨月はひとりじゃなかったんだって知って、安心したんだ。本当だよ」
自分のくちびるから紡ぎだされる言葉は、きっと全部がうそだった。この涙がうれし涙じゃないことくらい、自分がいちばんよく知っている。……だけど、なんの涙なのかはわたしにもわからない。ただとめどなく溢れ出てくる。
深い呼吸を繰り返し、なんとか涙を止めようとする。ぽたぽたと零れる雫を何度も手の甲で拭った。
そして、震える喉から無理やり明るい声を絞り出して、わたしは雨月に笑いかける。
「ねえ、雨月。わたし、もうここに来なくてもいいよね」
雨月の目が見開いた。背中をさする手がぴたりと止まる。
泣きながら無理に笑顔を作っているせいで、泣き笑いのような変な顔になってしまう。それでもわたしはなおも明るい声音で雨月に言った。
「だって雨月には似鳥さんがいるもんね。わたしが心配しなくてもいいんだよね。ああ、よかった! これでわたし、昼休みにも仕事ができるんだ。最近自分の仕事がちっとも片づかなくて困ってたの。雨月と一緒にお昼を過ごしてたから、時間がなくて。そうだ、似鳥さんにもちゃんと感謝しなきゃ。あとでありがとうって伝えなくちゃね。わたしの幼なじみをどうぞよろしくって」
ふ、と雨月の顔から表情が消える。
わたしの背中から、すっと手が降ろされた。
「……なに、それ」
雨月はぼそりと声を吐き出す。
「おれ、頼んでない」
低い声。まるで怒っているような、そんな声。
視線を下げた雨月の瞳は、長い前髪がじゃまをしてうかがうことができない。
「雨月……?」
名前を呼ぶ。前髪に触れようと、そっと手を伸ばした。
その瞬間。ぱちん、と小気味のよい乾いた音がして、間を置いてから手の甲にじんとした痛みを感じた。
雨月が、わたしの手を振り払ったのだ。
「ここで一緒に昼休みを過ごしてくれなんて、おれ、最初から頼んでない」
長い前髪のあいだから、強く睨む瞳に射貫かれる。
自分の言ったことを後悔しても、もう遅い。わたしが自分を守るためだけに吐いた言葉の鋭刃は、無防備な雨月の心を傷つけた。……深く、傷つけてしまった。
「あ……ち、違う、雨月、違うの」
「違わない。晴花もどうせ、おれをかわいそうだと思ってたんだろ。心の中で、ずっとおれを嘲笑ってたんだ。あいつらと同じように」
「違う、ごめん、わたしはただ」
――ただ、雨月の残りの高校生活を、少しでも笑顔のあるものにしたくて。
……そう思っても、言葉にはできなかった。きっと、そんなふうに思うことさえも、雨月にとってはいらない世話だ。迷惑でしかないのだろう。
目を伏せたままの雨月は、体の横でこぶしを握りしめる。
「なんかむかつく」
「……雨月……」
「全部おれのせいかよ。そんなふうに思ってるんだったら、最初から来てほしくなかった。ずっとひとりのままがよかった」
雨月はそう言うと、わたしの横を足早に通り過ぎて、扉を出たところで足を止める。それから肩越しにほんの少しだけ振り返り、掠れる声で言った。
「もう学校でおれに話しかけないで」
「うづ……っ」
雨月が屋上を出ていった。
その背中を追いかけようと足を前に出した瞬間、重い扉が風に吹かれ、大きな音をたてて勢いよく閉まる。まるで「追いかけてくるな」と言われているみたいだった。
深い深い溜め息を吐き出す。つらくて、苦しくて、それなのにどうしようもなくて。
震える両手で顔をおおった。
「……雨月……」
ささやいた彼の名は、どこからか舞い落ちてきた一枚の葉とともに、彼方から吹きつける風に流されて消えていった。
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