《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第2章 雨の月 第3話 今も、むかしも
第2章 雨の月
第3話 今も、むかしも
ソファに座ったまま、ううんと背伸びをする。は、と息を吐いて中空を見つめた。こち、こち、と時計の針の音が鼓膜をくすぐる。
短い沈黙のあと、そういえば、とわたしは雨月に言った。
「……ねえ、雨月。帰る前にいっこだけ、聞きたいことがあるんだけど」
雨月は一度だけまばたきをして、ゆっくりとわたしを見つめた。小さいころから変わっていない、綺麗なままの透き通った黒い瞳。
「……雨月は、さ。いつも学校で、あんな感じなの……?」
できるだけ、ささやかな声音で問いかけた。
突然の質問にも雨月はうろたえる様子もなく、ただゆるりと首をかしげてみせる。まるでわたしの反応を楽しんでいるみたいに、その口もとには皮肉げな笑みが貼りついていた。
「あんな感じって?」
「え、と……だから、あんな……」
口ごもる。視線を下げて、自分の手もとを見つめた。
なんて言えばいいのかわからない。今日初めて見た学校での雨月を、どう言葉にしたらいいのだろう。
……そう。そうだ。たしか、他の生徒たちが言っていた。雨月の学校でのあの雰囲気。
あれは、まるで、
「――暗くて、じめじめしてて、カタツムリみたいだって?」
胸の奥がずきりとした。呼吸が止まりそうになる。
あまりにもはっきりとした雨月自身の言葉に、はっと顔を上げて雨月の瞳をじっと見た。
「……違う」
「違わないよ。だって、あいつらがそう言ってただろ。晴花も一緒に聞いてたじゃん」
「違う。……わたしは、そんなふうには思ってない」
ふるふるとかぶりを振る。そんなわたしを、雨月はすぐに鼻で笑った。
「じゃあ、どう思った?」
直球な質問だ。
わたしは雨月の瞳を見つめてから、テーブルの上のカフェオレに視線を落とす。とけた氷が、からんと小さな音をたてた。
「……本当のことを言うとね、もう少し明るくふるまえばいいのに、って思ったんだ……」
本音だった。わたしはたしかに、そう思っていた。
今わたしの目の前にいる雨月は、楽しそうに笑い、楽しそうに喋る。これを学校でもすれば、きっとたくさん友だちができるはずなのに、と。
雨月はむかしから人見知りだった。
誰よりもおとなしくて、泣きむしで、引っ込み思案で、怖がりで。自分から率先してなにかをするタイプじゃなかった。お世辞にも明るい性格とは言えなくて、友達と呼べる存在はほとんどいなかった。なにをするにもわたしの手が必要で、いつもわたしの横にちょこんと立って、わたしの服の裾をきゅっと掴んでいた。
だからわたしは、雨月のことが心配で、心配で、たまらなくて――雨月を守り続けていたのだ。
目まぐるしく景色の変わる外の世界が怖いのだと、怯えて泣く雨月の小さな手を引っ張って、まだ知らない世界の楽しさを教えてあげたのはわたしだった。
でも、それはむかしの話だ。成長して中学、高校と通うようになった今、雨月は前より明るくなったし、よく笑うようになった。泣かなくなったし、堂々とするようになった。手を貸さなくてもひとりで立てる。だからもう、前みたいに気にかけてあげなくても、きっとうまくやれるだろう。学校でだって、クラスの中心にいるような存在にはなれなくても、そのなかに入っていくことくらいはできるようになったはずだ。……そんなふうに考えていた。
……だけど、それは全部、わたしの前でだけだった。
思い違いだったのだ。雨月は、違った。雨月はずっと、むかしの雨月のままだった。
教師になって初めて目の当たりにした雨月の学校生活は、つねに空に雨雲があるように薄暗くて、じめじめしていて、ほこりくさくて、陰があって。これじゃあまるで、自分の殻に閉じこもって出てこない……カタツムリみたいだと思った。
うつむき黙り込むわたしに、雨月が「ほらね」と小さく笑う。
「やっぱり晴花も、あいつらと同じことを思ってる」
「ち、違う、そうじゃなくて、わたしはただ……」
「同じことだよ」
被せて発せられた声に、続くせりふを飲み込んだ。否定する言葉を雨月に遮られる。視線を上げて、学校にいるときは前髪に隠れて見えなかったその双眸をまっすぐに見つめた。
「晴花は違うと思いたいだけだ。でも、実際は同じことなんだよ。晴花が思ってることも、あいつらが思ってることも」
そんなことない。
……そう言いたいのに、もう言えない。かぶりを振りたいのに、もう振れない。そんな自分が悔しかった。……まるで雨月の言葉を肯定しているようで。
なにも言えずにくちびるを引き結ぶ。そんなわたしを見やって、雨月はまた薄くほほえんだ。それから、だから言ったのだとでも言うような表情を浮かべる。
「晴花が今のおれを見てどう思ったのかは知らないけど」
ひとつ、小さな呼吸をして。
「おれは変わってないよ。今も、むかしも、ずっとこのまま」
そうつぶやく横顔が、どこか諦めているように見えたのは気のせいだろうか。
雨月。わたしの、かわいい、小さな幼なじみ。
いつからこんなふうになってしまったのだろう。胸の中でささやいて、ひとりでそっと首を振る。
違う。いつから、じゃない。最初から、だ。
雨月は小学生のときも、中学生のときも、ずっとこんな性格だった。だからわたしは心配で、ずっと隣で見てきたのだ。雨月がひとりぼっちにならないように、雨月が悲しむことのないように。……だけどゆいいつ、この四年間だけは目を離してしまっていた。わたしも大学の勉強に追われ忙しい日々を送っていたせいで、なかなか気にかけてあげることができなかった。ずっと心配はしていたけれど、でもきっと大丈夫だろうと思っていた。雨月だってもう子どもじゃない。小さなころは「ひとりじゃ嫌だ」と泣きじゃくっていた雨月だって、今はわたしがついていなくても平気なはずだ。
……そう思っていたのに、実際は、ちっとも平気じゃなかった。
今日のあの状態を見ているかぎり、雨月はむかしのあの性格のままだ。わたしが知らなかっただけで、高校に入学してから今日までの二年間、雨月はずっとひとり自分の殻に閉じこもっていた。わたしが見てあげられなかった時間だけに、ぽっかりと穴が開いていた。
……わたしのせいだ。
あんなに、ひとりぼっちにはさせたくないと思っていたはずなのに。
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