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優しさってなんだろう?2
前回↓
https://note.com/irohairoha/n/n1d90faeb221b
1に引き続き、優しいという評価が引っ掛かるというお話しです。
「万人に優しい訳ではない」
私が優しいと言ってもらえても、素直に受け取れない原因のひとつです。優しいの定義がみんなに優しいならば、自分は当てはまらないはずです。
もしも、私が友人にこの反駁をぶつけたならば「そんなの当たり前」と返ってくるでしょう。反対の立場でも、笑いながらよどみなくそう答えます。真の博愛はそうそうできることではありません。
ですが、私のことを優しいと評するならば、相手は私から優しさを求めているのではないでしょうか?けれど、求められたからといって誰でも喜んで慈愛を渡したくはありません。苦手な人もいます。
上辺だけで優しい行動を取っても本質的には相手のためを思っての行為ではないのです。
優しい行為は自己満足かもしれませんが、表面上の行動は自己満足でさえもありません。自己保身です。仮初でも、主観的でも、他の幸せを願っての行いではないそれは、自己満足の優しさにも満たないものに感じるのです。
「この人は優しくしてくれるはず。」「優しくされたい。」それは他者の希望であって、こちらに応える義務はありません。とはいえ、優しくされたい相手を思いやらないのですから、私は別段優しい人間ではないように思います。悪い方に表せば、虚偽の厚意で人をだましているとも言えるでしょう。
それのどこが優しい性格なのだろう?疑問をぬぐえません。少し潔癖かもしれませんね。
また上辺の優しさは、もうひとつ問題を抱えています。私が我慢を重ねることです。
円滑な人間関係のために相手のニーズに応えることは、一見、優しく見えます。ですが、自身にとっては繕いや我慢の連続です。多少ならばリラックスできる場でストレス解消するので日常に支障はきたしません。多少でなくなることが、以前から何度もありました。
気難しい性格の方はどこにでもいます。私自身も神経質な性格です。ただ、場を乱すことは避けているので、無難な人付き合いが必要な状況ではコントロールしています。
衝突や乱れを省みない方の場合はどうなるでしょうか?絶えず人間関係に問題が起きます。私は、そういった方々と連携して作業(主に職務)をすると、だいたい我慢を重ねて疲れはて、トラブルに発展するのです。
その人が作業しやすいよう慮って合わせたりサポートをすると、周りを気にしないでどんどん好き勝手になることもあります。そうなるとサポートもしきれなくなり音を上げるのです。あるいは我慢が限界になり心身に不調をきたします。
真心からの譲歩や補佐ではないため、気持ちの負債が伴うのです。
これは優しすぎるなどと評価されます。しかし、正しい「優しい性格」の在り方なのでしょうか?
このままではいけないと思っても、折半案や説得が通じない相手であることも往々にありました。とはいえ、自己主張できないことは優しさとは違うのではないでしょうか?
先日、優しい人だから幸せになってほしいと言われました。けれど、気を遣いすぎて、働く面で今は幸せではありません。何度も苦しい思いをしてきました。
自己犠牲の上に成り立つ、コーティングのような偽りの優しさは、優しさと言えるのでしょうか?また自身に苦痛をもたらす優しさは本当に必要なのでしょうか?
この幸せを願われて嬉しい反面、まったく現実がともなっていないことが優しさへの疑問が大きく膨らんだきっかけです。
次回は、自分に優しいことが重要といった主旨で書きたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。