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読書感想文「初ものがたり」

※宮部みゆき「初ものがたり」の内容に触れます。

「いい塩梅」この言葉が好きです。
なんでも、料理をする際に塩と梅酢(当時は食酢がなかった)の加減が良いことを言うんだとか。

言葉はその言語圏の文化に影響を受け発展します。生活や思想が垣間見えるような単語はつい思いを馳せてしまうのです。


さて、江戸時代に塩梅という言葉があったかは別として、初ものがたりは正にいい塩梅の小説でした。

文体も起承転結のバランスもいい。短編集という早い展開を求められるお話に合った軽快な文章でした。単に軽快なだけでなく、江戸情緒が感じられる言葉選びで適度な重みがあることにまた痺れます。
加えて宮部みゆき氏の長編作品は中盤が長く、終盤が非常にあっさりした印象があるのですが、短編集となると全てがスピーディです。相対的に終盤のあっさり感がなくなり、私にはいい塩梅の一冊でした。

物語の主人公は、下町の岡っ引きである回向院の茂七親分です。親分の元へ舞い込む大小こもごもの事件が人間の心情や季節感と織り交ぜて描かれています。

物語にはたちの悪い、悪意に満ちた事件もありますが、蓋を開ければどってことない出来事もありました。

一番事件性の低かったお話は「凍る月」です。貰い物の鮭がお店の台所からなくなって、わざわざ店の御主人が親分の所へ足を運びます。ある女中さんが急に犯人を名乗り、そのまま戻らなくなってしまいました。御主人は気弱にあわあわして、拝み屋なんてカルトじみた者にまで頼り始めます。

結局、茂七親分は馴染みの稲荷寿司屋で得た情報から、どうやら女中さんは盗んでいない鮭を言い訳にお店から去ったらしいと判断しました(猫の仕業も示唆されています)。
御主人は下積み時代、将来を約束されているにも関わらず女中さんと憎からず想い合っていたのです。店の跡継ぎとなり変わってしまった男性を見限り、ただ切っ掛けを探していただけだろう。親分はそう考えをめぐらせていました。

憧れに裏切られた女中さんの失望感や、人間模様を俯瞰した親分のやるせない気持ち。自分もいつかどこかで抱いたことのある情緒に胸がキュッとなります。

事件ですから、裏には負の感情がひそんでいます。失望・嫉妬・怒り。誰もが思いに身を任せて人を傷つける訳ではありません。それでも、誰もが身に覚えのある心の在り様だと、1人の岡っ引きの旦那が気付かせてくれるのです。この哀愁は江戸の物語を今の私に強くつなげてくれるのです。

登場人物に思いを馳せてページをめくっていくともう終わり。連作の短編ということでこの一冊にゆるく流れる謎が解けることを期待していました。
稲荷寿司屋の親父さんです。やたら料理上手で、恐らくは武家の者。物静かでありながら、茂七親分をハッとさせる一言を放つ不思議な屋台店主です。

実は随分と前に読んだことのある小説だったのですが、内容はほとんど覚えていませんでした。初めて読んだ時も同じようにわくわくしたんだろうと期待をしながら最後の一文まで読み切ります。
なんと謎の店主、明確な正体は明かされないではありませんか。覚えていない訳です。書かれていないのですから。

いい塩梅の短編集ですが、足りない。正体が知りたくて知りたくて堪りません。
悔しいかな、物足りなさまで完璧な加減です。作者の手に踊らされている、気になって仕方ない心境までいい味に感じてしまう。でも落ち着かない。

そわそわと現代文明の利器を取り出し、検索しました。江戸時代でなくて良かった。幸い、正体が分かる作品があるようなので、哀愁の余韻に浸りながら探してこようかと思います。

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