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旧別格官弊社 小御門(こみかど)神社

SPYxFAMILY顔負けの勇者「師賢(もろたか)公」を祀る

こんにちは、いろはす@千葉在住です。

房総神社御朱印巡りの冒険(房総三国神社御朱印スタンプラリー)、
今回は「小御門神社(こみかどじんじゃ)」の参拝記録です。


1. 別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)とは

10世紀(927年)に延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)という全国の2861社の神社リストがまとめられました。そこに記載された神社は、朝廷が認めたというお墨付きとなり式内社(しきないしゃ)と呼ばれ、一種のステータスを得ています。

明治4年、太政官によって全国11万社の神社に新しいグレードが定義されます。これが、近代社格制度(きんだいしゃかくせいど)です。この時新たに創設されたのが、「別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)」という社格です。

古来の天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)といった日本神話に登場する神々を祀る神社に対し、新設された「別格官幣社」では、国家になんらかの形で寄与した臣下や武将などを祭神として祀る特徴がありました。

2. 後醍醐天皇の討幕に貢献した人物を祭神に

時は、江戸幕府が倒幕された尊王カルチャーが隆盛であった明治維新のタイミング。振り返ると、同じように鎌倉幕府を討幕し、後醍醐天皇が牽引する「建武の新政」の時代と時代背景が重なったのでしょう。
後醍醐天皇に貢献・尽力した臣下・武将などを主祭神とする多くの神社が、「別格官幣社」に選ばれています。

その後、近代社格制度は、戦後GHQによって廃止されます。しかし、当時の社格は「旧別格官幣社」の呼称として今も残っています。
小御門神社もそんな「旧別格官幣社」のひとつです。

3. ご祭神・藤原師賢(ふじわらのもろたか)公

小御門神社の祭神は、藤原師賢(ふじわらのもろたか)、またの名を花山院師賢(かざんいんもろかた)と言います。もちろん、実在の人物です。

鎌倉時代の公卿であり歌人でもあった師賢さんは後醍醐天皇の息子である懐良親王(かねよししんのう)の教育係にも任命されるなど重用されます。優秀だったんですね。

やがて、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕を計画するも、1331年8月の元弘の乱が勃発し後醍醐天皇が京都から逃れることになった際、すぐさま師賢(もろたか)さんも合流します。
すると、後醍醐天皇は勅命をだすのです。「世の身代わりになって比叡山の僧兵を動かし敵を追い払へ」とあまりに大胆な作戦を、師賢(もろたか)さんに命じます。
そこで、師賢(もろたか)さんは、装束を着替え輿を用意し、後醍醐天皇になりすまし比叡山に向かいました。
比叡山延暦寺の衆徒は、師賢(もろたか)さんのことを天皇だと信じ、押し寄せてくる幕府軍を見事に撃退。師賢(もろたか)さんのスパイ作戦の成功により、後醍醐天皇は追手をかわし笠置山(かさぎやま)に潜行できました。

やがて、師賢(もろたか)さんが偽物であることはバレてしまい、衆徒らは怒って離反。師賢(もろたか)さんは、比叡山脱出を余儀なくされ、笠置山の後醍醐天皇に合流しますが、一ヶ月におよぶ幕府軍との攻防の末に陥落し、敗走中のところを捕らえられます。
その後、下総の国に流されることとなり、成田市の千葉貞胤(ちばさだたね)の家で拘禁の身となりますが、数ヶ月後には病のためで亡くなられたそうです。

本人の真筆が残っていることから、その時代に「そこにいた人物」であることが生々しく想起されます。

ちょっとだけ想像してみてください。
もし、突然、「帝になりすまして延暦寺に入り込み、衆徒らを騙して戦ってこい」と命ぜられたら、、、何日間も演技し続ける必要がありますし、いつまで騙し続けるのか、肝が据わってないと無理ですよね。
実際のところ、師賢(もろたか)さんは、君主である後醍醐天皇のために命懸けで勝負に出たのではないでしょうか。

4. 清々しい空気と厳かな雰囲気に包まれた境内

そんなスパイファミリー顔負けの藤原師賢(もろたか)公を祭神とする小御門神社の入り口には、大きな鳥居があります。
そこから大木に囲まれた森の中に参道が続いています。一歩進むと、明らかに空気が変わり、清々しい空気と厳かな雰囲気に包まれた境内で、少し緊張しました。

大きな鳥居をくぐると、空気が変わる

森の中を進んでいくと、狛犬くんたちが迎えてくれます。思いのほかくりくりしたパーマヘアの狛犬くんたちが可愛いなと思い、緊張がほぐれました。

本殿・拝殿につながる鳥居。板垣で囲われている。狛犬くんを撮影し忘れました。


拝殿や本殿の周囲には板垣で囲われており、細かな作りにも格式を感じさせる神社です。

拝殿正面から撮影。神秘的な空気感が写真からも伝わります。

拝殿は、舞台になっていてお花が生けられていました。(お正月だからかな)
賽銭箱の隣には、丸い石が置かれていて、「身代わり石」と書かれています。石を撫でると自らの厄や災いを取り除いてくれるそう。なでなでたくさんしました。

趣きのある格調高い本殿

本殿の雰囲気は、菊の御紋ののれんのせいか、なんとなく伊勢神宮を想起させます。どこを見てもとても絵になる神社です。

5. 下総の民の希望によって明治に創建へ

小御門神社は、明治に創建された比較的新しい神社です。
師賢さんが亡くなった後、長い月日の間、村民は、墳墓を「公家塚」や「大納言塚」、この地を「小御門村」と呼んでいたそうです。
1722年頃、このことを調査した佐倉藩の磯辺昌言が「佐倉風土記」の中で、この塚を花山院師賢墓であると記しています。
さらに200年後の明治に入り、墓所のある名小屋村(淀藩領)の名主である沢田総右衛門らが神社創建を請願します。
「小御門神社御由来記」を読むと当時の記録が残っています。君主を守るために命懸けで戦ったにも関わらず、室町幕府、江戸幕府と続いた長い武家政治の時代に埋もれてしまっていた師賢さんのお墓を、きちんとした形で祀ってあげたかったという村民たちの精一杯の気持ちが読み取れます。

この思いが明治天皇に認められ、勅命により大久保利通から千葉県に創建許可がおり、村民らが募金を募り、1882年4月29日に鎮座、同年6月29日に別格官幣社に列格されました。創建を請願し私財を投げ打って小御門神社を創建した沢田総右衛門さんは、初代宮司を務めることになります。

6. Googleマイマップ

編集後記

歴史上の人物が御祭神という珍しい神社だったため、調べていくとキリがないくらい文献や南北朝時代の歴史を学びなおす必要があり、公開までに時間がかかってしまいました。
学校で後醍醐天皇のことは習いますが、師賢(もろたか)公のことは全く知らず、流刑地の地元民としても学べてよかったです。

最後に宮廷歌人でもあった、師賢(もろたか)公が、偽物であることがバレてしまい比叡山を脱出する帰路で詠んだとされる歌ご紹介します。

思ふこと なくてぞ見まほし ほのぼのと 有明の月の 志賀の浦波
                           花山院師賢

(何の物思いもしなくて見たいものだ。
 このほんのりと有明の月が照らしている滋賀の浦波の美しい景色を)

新葉和歌集


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