賛否両論は炎上ではなく、批判は中傷ではない

 あけましておめでとうございます。普段は特定の作品やコンテンツについて書いていることが多いのですが、この記事は、自分が昨年書いたそれらの記事を繋げる形で、1つのテーマについて考えていることを書いてみます。

 ある意味では、自分自身の記事を題材に考察しているような記事でもあり、昨年書いた記事を有料部分を含めてところどころで引用していますので、ぜひそれらの記事もセットで読んで頂けると、より理解できるのではないかと思います。

(フワちゃんの記事のみ全文無料のためマガジンには含まれていません)

 

QuizKnock の記事を巡る反応は「炎上」だったか

 昨年 7/15に note を始めて、約半年が経ちました。昨年書いた6本の記事の合計は 1000 スキを超え、想像より遥かに大きな反響がありました。

 その中で最も大きな反応があったのは QuizKnock について書いた記事でした。

 様々なコメントを頂いて、もちろん言いたいこともあったのですが、東浩紀氏に取り上げられ、ひろゆき氏に取り上げられ、Yahooニュースになる……というところまで行った時点で、もう自分が何をどう追加で発信しても無意味だろうなと思い、火に油を注ぐ以外の対応がとてもできなさそうだったために諦めてしまいました。その中でも賛同の意を示してくださった一部の方には本当に感謝しています。

 

 もう半年前のことなのでわざわざ書いても仕方ないのですが、QuizKnockの記事については、私は炎上したとは今でも思っていません。

 否定の声も当然ありましたが、記事・ポストともに一定のいいねが付き、付いているコメントとしても賛否両論で、というのは、一般的な議論として受け止められる範囲であったと思っています。

 これを「炎上」という言い方によって、まるで書いた人が何か悪いことをしたかのようにカテゴライズするのは、むしろこういった発信をますます萎縮させてしまうだけだし、それが元記事で問題視するような、「あらゆる問題に意見を表明しない」スタンスが正解とされる風潮にも繋がっているとも思っています。

 これはただ「話題になっただけ」であり、こういう発信が増えた方が良い、むしろこういうものが当たり前の意見の1つとしていちいち人格否定されずに流れているべきだと今でも信じています。

 

「賛否両論」と「炎上」が区別されない問題

 今のSNS空間は、「炎上」というネガティブな言葉が、カジュアルに使われすぎて、「賛否両論」「バズ」「話題」などの表現が全て「炎上」とほとんど同義になってしまっています。

 話題になること=炎上である、という考え方は、つまり「話題になることは罪である」と言っているようなもので、そして実際に(はっきりと言語化できていなくても)そう考えている人は多いように見えるのは、現在のSNSにおける深刻な問題であるように思います。

 世間に対して何らかの波紋を広げる行為を全て悪行であると考えているとしか思えない反応を目にすることが多々ありますし、話題になったというだけでいわゆるクソリプのような雑引用、揚げ足取りのような指摘が付くのも、

 話題になっているポストを目にした時にまず「炎上しているということは悪い思想なのだろう」という無意識のバイアスがかかった状態で文章を読み、そのちょっとした言葉選びのミスを正す行為こそが勧善懲悪であると思い込んでしまっているのではないでしょうか。

 例えば、先日話題になっていたこのポストについて、引用を見ると『必ず描くべき』という言葉選びについて、「ドラマの作り手について命令するな」「何を描くかは制作側の自由だ」などと指摘する人が非常に多いです。

 しかし、このポストにおける「描くべき」という表現は、作者への命令ではなく一般論としての妥当を表していると考えるのが自然でしょうし、仮にどちらとも言い切れないとしても、 X という媒体の制約の中では、そのような意図的な誤読を完全に防ぐことは難しいでしょう。

 これは年末年始に話題になった、 B'z の過去の評価について「文化的な素養がある人」という言い方をしたポストが叩かれていた件も同様です。

 これ自体がいわゆるトーンポリシングそのものですが、このような発言をするのはそもそも悪い奴だという前提に立って読んでいるから、それが恣意的な解釈であるという自覚を持てない。今のSNSで対立構造が生まれてしまうのは、そのような背景もあるように思います。


「無害」なエンタメ/インフルエンサーがもてはやされすぎている

 話題になることは悪いことである、という風潮は、SNS が一般化し、「炎上」という言葉が定着したことで加速し、その裏で「毒にも薬にもならないエンタメがありがたがられすぎている風潮」が進行しているように思います。「傷つけない笑い」と同様の表現ですが、お笑いに限らないエンタメ全般について言っています。

 昨年書いた6つの記事はどれも自分が以前から考えていたことがベースになっていて、中でもそれを特にかなり直接的に言及したのが、フワちゃんの一件で書いた記事の以下の文章です。

SNSの普及によって「炎上」という現象が一般的になり、バランス感覚があることがタレントに強く求められ、そこを欠いたことへのペナルティが著しく大きくなりすぎた結果として、(粗品のような一部の例外を除いて)あらゆる炎上しそうな火種についてなるべく触れずに無視し、多数派の意見に乗っかることが正解となり、それは結果的に今の社会で起きているあらゆる問題について考えることをタブー化させ、結果的に現状維持に加担する向きが強くなっているように見えるし、今回の件はそういう動きをさらに加速させるものでしょう。

フワちゃんの発言について思うこと、誹謗中傷と炎上と人気の切り離せなさについて

 「多数派の意見に乗っかることが正解となり、それは結果的に今の社会で起きているあらゆる問題について考えることをタブー化させ、結果的に現状維持に加担する」というのは、この記事を書いた時点でまさにQuizKnockに対して考えていたことでもあり、『加担』というワードはそれを念頭に置いています。

 それを改めて言語化しようと向き合ったのが QuizKnock の記事でした。

 結果的に記事が長くなってしまったことや、複数の論旨が混在したこと、またセンセーショナルな箇所が最初にバズってしまったことで、そのような問題意識を共有していない人に伝わりきらなかった反省はありますが、「何もしないことの加害性」を指摘するという目的は達成できたのではないかと思います。 

 これは QuizKnock 自身に対しても、QuizKnockファンに対しても、最初に引用したようなコメントで、QuizKnockが「特定の立場に偏っていない」「炎上しそうな発言をしない」ことを持ち上げるの、もうやめませんか、と思っています。
 特定の立場に偏らないことは不可能です。QuizKnock もそう見えないだけで十分に偏っています。その上で大事なのは、自身の偏りを自覚し、常にその正しさについて自問した上で、どういう態度を表明するか、どこまで自身の立場をアップデートし続けられるか、だと思っています。

QuizKnock は社会問題への無関心に加担している|iroha

 ただ、あの記事に対して QuizKnock ファンからの「そんなものは求めていない」という大量の声が可視化されたこと、私の意見に賛同する人が相対的に少なかったことは、「多数派の意見に乗っかることが(ビジネスとしては)正解」であることを改めて証明するものでもありましたし、そこに対しては諦めの気持ちもあります。

(ちなみに、この記事の有料部分には、その反応を予言している箇所があったりします)

 

他者の批判以外は何をしてもいい「推し活」時代

 何かを否定することだけが過剰にタブー視された結果、「大衆の支持を得たファンコンテンツ側が本当に何をしても良くなりつつある」という現状があります。

 多大な見返りを受け取るためにファンからの過度な要求に応え、ファンに一切の悪感情を与えないことで利益を最大化するエンターテインメントが増えすぎてしまっているし、以前なら賛否両論あって当然であったはずのそれが、多様性、個人の自由、などの言葉を隠れ蓑に「推し活」という綺麗な言葉にまとめられ、やりたい放題になってしまっている、と言っても良いでしょう。例えば、

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