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『ルックバック』は「主観的な解釈」を徹底的に肯定する

 公開から少し時間が経ってしまいましたが、『ルックバック』の映画を観ました。

 原作漫画はウェブ公開当時に一度読んだきり触れていなかったのですが、映画という形で改めて観て、かなり印象に残り、それから数日、あの作品は何だったのだろう、といろいろ考えを巡らせずにはいられませんでした

 自分なりに『ルックバック』について、どういうテーマがあり、なぜこのように支持されているのか、について考えたことを整理して書きます。

※『ルックバック』以外の藤本タツキ氏の作品を読んだことがないので、それらとの繋がりや、作者本人の生い立ちとストーリーの類似性などについては触れません。また、漫画と映画をそれぞれ一度観ただけなので、記憶違いや、作品の背景などについての認識違いがあったらすみません。


『ルックバック』を印象づける3つのシーン

インターネット時代だからこそ刺さる「創作者としての絶望」

 『ルックバック』が大きな話題を呼んだ理由として、藤野の考えや行動に共感し、彼女の痛みと自分自身の過去を重ね合わせて観た人が多いことは言うまでもないだろう。

 特に、藤野の小学生時代のエピソードは、創作活動をしていれば一度は必ず経験するであろう、残酷な瞬間を見事に描き出している。

 井の中の蛙として周りから持ち上げられていたところから、圧倒的な才能を持った存在が急に現れ、それまで褒めてくれていた周りの人からも悪気なく否定される。そこからどんなに努力しても追いつくことができず、最終的には漫画を描くことを一度辞めてしまう。

 現代はインターネットやSNSの発達によって、多くの人間が多かれ少なかれ創作者、発信者としての側面を持つ。note や TikTok のような発信のハードルを下げるプラットフォームはどんどん増えているし、SNSに何かの感想を書いたり写真を上げたりする行為でさえも、他者からのリアクションと評価を少なからず期待している。

 クリエイターと呼ばれる人種でなかったとしても、自分がしたいことをもっと上手くやっている他者の才能や実力に嫉妬したり、心無い感想を受けて傷つき発信が嫌になったり、といった藤野と重なる経験を多くの人が持っている。

 また、直接的なインターネット上での活動に限らず、自分と同世代の人間や同業者の活躍を見る機会も多い。

 SNSが当たり前にある今の時代、自分のあらゆる能力について自分より優れた他者がいることは当たり前であり、自覚的であってもなくてもその嫉妬とどう付き合うかを考えながら日々を生きている。そういった無意識的な劣等感と嫉妬を『ルックバック』は見事に映像化している。

 『ルックバック』を絶賛する感想の中でも、「創作活動をしている人間に刺さる作品」であることに触れ、小学生時代のシーンを印象的なものとして挙げる人は特に多い。それは、嫉妬という感情が今の時代に生きていく上で避けては通れないものとして深く根付いているからではないだろうか。


自分の後ろにいた人から傷つけられるプライド

 中学生に上がってからの2人の物語は、小学生の頃の藤野の絶望とは無縁の、ある種のサクセスストーリーのような形で進んでいく。

 京本が実は自分のファンだったことを知らされた藤野は再び漫画に取り組み、2人で漫画を描き、世間からも評価されていくと同時に藤野は京本を外の世界に連れ出していく媒介者のようにもなる。

 しかし、そうした2人の関係は、京本が美大への進学を希望したことで唐突に終わりを告げる。

 藤野にとっての京本は常に自分の後を追いかける存在であり、漫画を描くことでもそれ以外でも常に藤野が優位に立っていた。「Look back」(私の背中を見ていて)というタイトルの意味でもある。

 それが2人の関係性の全てではないにしても、京本が藤野のことを無意識的に見下していたという側面も間違いなくあるだろう。そういった存在が自主的に自分の元を離れていき、自分の思い通りになると確信していた相手がそうではなくなる。

 こうした経験もまた、友人や恋人や家族といった関係性の間で普遍的に起き得ることだ。

 ある点で自分より劣っている相手があらゆる点で自分より劣っているとは限らないが、人間は往々にしてそのように思い込んで関係性をシンプルに捉え、安心できる相手を見極めたい。そのように見ていた相手に自分の想定していない行動を取られると、狼狽え、自分の優位性とプライドを必死に守ろうとする。そんな痛々しさが克明に描かれている。

 

身近な人間の死と自責

 そして、2人が別の道を歩んでしばらく経ち、藤野が漫画家として更なる成功を収めていく中で、京本が凄惨な無差別殺人の犠牲になってしまったことをニュースで知る。

 藤野は京本が死んだ理由を自分のせいだと考え、自分を責める。しかし、過去の自分やパラレルワールドの藤野とのやり取りという(おそらく)藤野の想像上の人格とのコミュニケーションを挟みながら、最後には自宅に戻り、1人で漫画をひたすら描き続けるシーンで映画は終わる。

 『ルックバック』のタイトルの意味として、原作漫画の最初と最後のコマの単語を繋げて「Don't Look Back in Anger」(過去の怒りに囚われるな)と読めるため、ダブルミーニングになっているという説が一般的である。ルックバックのテーマの1つとして過去のトラウマからの脱却が位置づけられていると言えるだろう。

 人生の中で、身近な人間との別れや大切な人間の死を全く経験していないという人はほとんどいないだろう。そうしたショッキングな事象が唐突に起こった際の反応と、自分の力ではどうしようもなかった事象への向き合い方、そしてそれを乗り越えて人生を続けていく美しさを、言葉ではなく画で伝えている。

 

全てのシーンが「解釈」の材料

意図的に切り離され、曖昧に描かれる事象

 このような共感性の高い事象が連続して起こる『ルックバック』という作品は、本来は1つのストーリーにまとまりそうもない複数のテーマが、最小の登場人物で成立している映画とも言える。

 それを成り立たせるために意図的に落とされているものがあり、それは「シーンの繋がり」と「キャラクターの掘り下げ」だ。

 卒業証書を届けに行った日に藤野がその場で描いた4コマに込められた強烈な悪意。演出の迫力によって違和感なく溶け込んではいるが、その後のストーリー展開にあまり関わってくることはなく、藤野と京本のその直後の急速な接近からするとノイズに思える。

 藤野のあの悪意は京本からファンであると告げられて消失したのか、すっかり忘れたのか、本人は覚えていたのか、京本はあれを見て何を思ったのか。全て不明なままストーリーは進み、最後のシーンでの京本に対する後悔を増幅させるための伏線でしかない。そして、そのシーンの違和感は「繋がりに触れない」ことで乗り越えられている。

 もっと言えば、「そもそもあの漫画は本当に描かれたのか」といったところすらも曖昧だ。京本の家で起こった出来事は特に、どこまでが藤野の脳内でだけ起きたものなのか、現実と空想の境目が曖昧になっている。

 『ルックバック』のストーリーには論理的な一貫性がない。1つのテーマに深くのめり込もうとすると邪魔になる要素が散りばめられている。『ルックバック』を「才能の差に絶望する人間のための物語」だと解釈するなら中盤のサクセスストーリーは邪魔になるし、「懸命に努力することで嫉妬を乗り越える話」だとするなら終盤の展開と結びつかない。

 だが、そのようなシーンがコマ切れになって相互に邪魔をしないからこそ、観客ごとに異なるシーンが心に刺さり、その人の好きなように解釈できる。その解釈を否定する要素がなるべく少なくなるよう、慎重にシーンが間引かれている。


あえて平坦に描かれる2人の性格

 「才能を嫉妬した対象」「成長とともに価値観のズレから遠ざかった友人」「見下していた相手の成功」「自分ではどうしようもない過去の後悔と、そこからの脱却」というテーマを詰め込むために、藤野から見た京本は、「嫉妬の対象であり、親友であり、見下す相手であり、主人公と無関係な場所で死を迎える存在」という、情報過多な属性を背負わされている。

 一方の藤野も、「他人に認めてもらうために努力をする」「才能に絶望して創作を辞める」「全てを捨てて創作に取り組む」「漫画の賞を取って成功して人気作家になる」と、一貫性のない様々な面を覗かせる。

 そして、その一貫性のなさが矛盾にならないために、藤野と京本の感情の起伏を明示する描写がほとんどない。

 映画の中で最も特徴的な演出だと感じたのが、(自分の覚えている限り)2人が笑い合うシーンが一切なかったことだ。

 2人のテンションが上がりきった瞬間は意図的に描かれない。初めての賞金で街に買い物に出た帰り道の電車の中、2人の漫画が掲載されたジャンプを雪の中で買いに行くシーン、2人が笑顔で談笑していそうな場面では急に引きの画になってBGM以外の音が消える。

 2人がどのような性格であるかをあえてぼかし、具体的な感情を描かないことで、観客の想像に委ねようとしているのではないか。

 それは「好きなように解釈してください」というメッセージであり、つまり観客は自分自身が感情移入しやすいように捉えることができる。

 京本が美大を受験することをきっかけに藤野と京本が決別するシーンでも、藤野の未熟さと京本の言葉足らずさによって、表面的な言葉のやり取りにとどまり、2人の真意は明かされない。

 京本が美大に行くことを止める藤野の一連の言葉が本心であると受け取る観客は少ないだろう。だが、その本心が何だったかを映画の中では明確化しない。その裏に隠された意味を自身の経験と感覚によって補完することで、観客はさらに藤野に感情移入していく。


論理的に説明が付かないことで生まれるリアリティと余白

 藤野と京本がどのような人間であるか、物語を通してもほとんど明かされず、シーンによって異なる面を見せるキャラクターとして描かれることは、一方で2人の人格のリアリティを増す効果も持っている。

 現実に生きる人間に一貫性なんてものはなく、様々な面が当然のように同居している。1人の人間が特に理由なく他人に優しくしたり嫉妬したりする。まして、作中で10年近い時間が経過しているのであれば性格が変化することもあるだろう。

 藤野と京本の性格を一言で表せないからこそ、あれは何だったのだろう、どういう行動原理によるものだったのだろうと考える余地があり、そしてその答えを一義的に絞り込ませない。それはまるで、私たちが普段生活していて出会う他人の考えをいくら想像しても答えがないのと同じように、説明が付かないからこそリアリティがある。

 ストーリーについても同様で、それぞれのシーンで起きるイベントは相互に意味を持っていない。

 藤野に才能の差を見せつけた相手と、一緒に漫画を描くことになる友人が、同一人物であるストーリー上の意味は特になく、それによって何か劇的なことも特に起きていない。無差別殺人の被害者が京本であったことについて、彼女の才能も学生時代の活躍も藤野との関わりもほとんど意味がなく、それまでのシーンで起きたことは何の理由にもなっていない。

 だが、言うまでもなく現実で起きる出来事の全てに関連性があるわけがなく、その多くは必然性もない。必然性もドラマもない物語であるからこそ、観客は藤野と京本に起きたことを、「もしかしたら自分にもあり得ること、自分の周りでも起き得ること」であると自然に解釈し、ストーリーの中で描かれることを自分自身の人生に重ね合わせた感想を抱く補助線が引かれている。


実在の事件を解釈するということ

「京本が死んだのは藤野のせい」という「解釈」

 そして、『ルックバック』はこの「主観的な解釈」というテーマ性を、作中にも組み込んでいる。

 藤野は京本の家を訪れ、壁に貼られた4コマを見て、「京本が死んだのは私のせいだ」と呟く。しかし、事実関係としてはもちろんそんなことはない。

 京本は元々漫画を描くのが好きで、美大を受験すると決めたのも京本自身で、そして直接の死因も無差別殺人という、被害者視点で言えば事故に近い不運によるものだ。

 しかも、藤野にとっての京本の死は、本来であれば既に関わりを失った友人の、自分が一切関与できない場所で起こった事件であり、その前後で藤野の人生に何か決定的な変化を与えるものではない。2人で一緒に漫画を描いていた時期に京本が亡くなっていたら、連載を続けること自体も危ぶまれただろうが、既にそのような依存関係にもない。

 だが、藤野は「京本の死」を自分のせいであると自分に言い聞かせ、そして自室に戻る。それは、自分の人生において重大な意味を持ったドラマチックな出来事であったことにして、それを自分の人生の原動力に変えることでトラウマを清算しようとした、とも取れる。

 現実に起こる事象に、ドラマのような綺麗な因果関係はない。だからこそ、人間は意味のないものに無理やり意味を見出そうとする。特に悲惨な出来事であればなおのこと、それが自分の人生に何らかの意味があったと思うことによって救われる。

 ともすればそれは陰謀論に傾倒していくような危うさを孕んでいるが、藤野のようにポジティブな方向のエネルギーに変えることは、人がトラウマを乗り越えていくために必要なステップである。

 身近な人間の死という悲惨な出来事を前にして、藤野はそれを主観的に解釈し、本来は関係のないものを関連付けることによって、自分自身の人生の糧にすることを選んだ。それは、まるでこの『ルックバック』を観た人たちが、自分自身と作品を重ね合わせ、自分の人生に「この作品を観た意味」を与えようと解釈するのと同じように。


京アニの事件を題材にする必然性

 この映画の原作となった漫画が発表されたのは、京都アニメーションの放火事件のちょうど2年後の翌日であった。京本を殺した犯人の「自分の作品をパクられた」という思い込みに基づいて罪のない人を殺すという行動は、明らかに京アニの事件の犯人の発言を意識したものになっている。『ルックバック』という物語の中で、「作品をパクられた」という犯人の発言に関連するテーマが他に一切出てこないことを鑑みても、あれが京アニの事件を想起させることを意図した描写であるという以外の解釈は難しいだろう。

 現実に多数の被害者が出ている事件を話題性のために利用したという構図があることは間違いなく、その点について否定的な印象を持っていた人も少なくない。私自身、漫画の公開当時には悪趣味な作品であるという印象を持っていたし、犯人についての描き方や、公開日をあえて合わせることでバズを狙った編集部の態度については今でも問題があったと個人的には思っている。

 そのような賛否あった漫画の公開から3年が経過し、裁判を通じた犯人の動機も推測ではない事実として明らかになりつつある中、映画の製作スタッフの間では犯人像を実際の事件からさらに遠ざけるという選択肢も必ず検討されただろう。

 しかし、実際に公開された映画でも、「パクられた」というセリフは残され、京アニの事件と完全に切り離すことはされなかった。

 そこまでして京都アニメーションの事件を題材として「使う」ことにこだわったのは何故なのか。それは、藤野にとっての京本の死と同じように、京アニの事件にショックを受けた人たちが、それを乗り越えるために悲惨な事件を自分の人生の糧として消費する態度を、作品を通して肯定するためだと考えるとしっくりくる。


 京アニの事件に限らず、何か悲惨な事件に対する反応として、「その事件に過剰な意味を付与する語り」というアプローチが取られることがある。

 例えば、京アニの事件後の初テレビアニメとなった『小林さんちのメイドラゴンS』の主題歌『愛のシュプリーム!』は、結果的にそのような物語性を負わされた曲の1つだ。

2019年の春にはテレビスポットを作っていて、年内に完パケの予定だったんですが、そこからいろいろなことが起こって……。

だからこうやって無事完成して万感の思いがあります。アニメを見させてもらったんですが、素晴らしいです。素晴らしいがゆえに、こみ上げるものがあります。

『メイドラゴン』はハッピーな雰囲気のドタバタコメディですけど、その一方でドラゴンと人間という違う種族の人たちの断絶も描いていて。そこには、今こうして人と人との距離が出来てしまっている時代にも重なるテーマが通底しているんですよね。

だから、このタイミングで放送されて、このタイミングでこの曲が世に出るというのは、何か意味があるのかもしれないなとは思っています。

2ページ目:『小林さんちのメイドラゴンS』OPに込めた切実な想い fhánaインタビュー | アニメイトタイムズ

 このような形で、実際に起きてしまった、そして絶対に起きないに越したことはなかった事件に何らかの意味を与えることについて、偽善のような抵抗感や罪悪感を持っている人もいるだろう。だが、人間がそうした悲劇を乗り越えるための手段として自分の納得できる形に捉え直す行為は、それぞれの人生を歩んでいく上で必要なケアの1つであり、一概に否定されるものでは決してない。

 そしておそらく、漫画の作者自身もまた、京アニの事件によって受けた痛みを、『ルックバック』という作品を発表することそのものによって乗り越えようとしたのではないか。

 『ルックバック』は起こった事象を解釈によって自由に扱うことを作中の藤野の態度によって肯定し、そして『ルックバック』という作品を世に放ったという行為自体が、メタ的に現実世界で同じことを体現している。

 だとすれば<Don't Look Back In Anger>というフレーズの意味も、この作品そのものがあの凄惨な事件を怒り以外の感情で捉え直すためのステップとして解釈し得る。

 「京アニの事件を題材にする」という行為は、決して話題性を狙うためだけのものではなかった。『ルックバック』という作品のテーマは、京アニの事件を作品内のモチーフとして消費し、そしてその作品自体が誰かの解釈の題材にされることで完成する。その意味で、この作品が映画化で改めて注目され、そしてそれがさらに多くの人に届いたこともまた作品の一部であると言えるのかもしれない。


有料部分に、本文の構成上うまく入れられずに浮いてしまったのと、少し賛否ありそうな内容であったためカットした項を載せています。記事の内容は無料部分で完結しているので、気になった方だけご購入頂ければ嬉しいです。

付記:SNS時代に最適化された作品の功罪

その解釈は、"考察"なのか"偏見"なのか

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