もう食べられない祖母のみかんゼリーは、人生のみちしるべ。
非常時に備えて、缶詰を定期的に購入しています。
いわゆる、ローリングストックってやつです。
先日スーパーで缶詰を選んでいる時に、夫がみかん缶を手に取りました。
それを見て私は、「小さい頃に祖母が作ってくれたみかん缶のゼリーが食べたいな」とぼんやりと思い出したのです。
祖母の作ってくれたみかんゼリー。
何のへんてつもない普通の手作りゼリーだったと思います。
ケーキ屋さんのプリンカップを洗ってとっておいて、水で薄めたシロップにゼラチンを溶かした液をそこに流し込んで、みかん缶のみかんを入れて固めただけのゼリー。
同じ味を食べたくて、何度か自分でも作ってみたのですが、なんか違うのです。
祖母のみかんゼリーにならない。何が違うんだろう。
今でも、みかんゼリーの味は思い出せるのに、どうして同じに作れないんだろう。
なんであんなにおいしかったんだろう。
そしていつしか、みかんゼリーの再現自体を、あきらめてしまっていたのでした。
色んな楽しみを教えてくれた祖母。
祖母には、色々な楽しみを教えてもらいました。
祖母は、ハンドメイドと呼ばれる分野のものはだいたい出来る人だったので、手芸、ビーズ、編み物など、全部祖母から体験させてもらいました。
また、花や植物が好きな人だったので、その影響で、私も小さい頃に花の苗を買って育てたり、あらゆる種を植木鉢にまいて育てたりもしていました。
よもぎの葉を教えてくれたのも祖母でした。
川の土手で一緒によもぎを摘み、持って帰って、よもぎもちを作って食べさせてくれました。
よもぎの新芽の初々しさ、葉っぱの裏の柔らかな白さ、手につくよもぎの香り。
だからなのか、道端でよもぎを見つけると、今でも反応してしまう。
自分にとって、よもぎはちょっと、特別な草。
特別なことではなかったのに
その時は、どれも、大人になっても何度も思い出すような出来事とは思っていませんでした。
ただ、特別ではない出来事を、日々を、過ごしていただけ。
そんな経験が、自分の好きなことのルーツとなっている事実に気付きます。
何十年も経つのに、いまだにいろんな角度から、私の心を温めるのです。
それは、私が生きていくための、小さな明かり。
その明かりを見ると、私の脳は、楽しいことを楽しいと感じられていた時の感覚を思い出します。
……何が人生の明かりになるかなんて、分からないんだな。
そう思うと、意味がないとか、淡々と過ごしている日々だとしても、生きていればいいんだな、なんて思うのです。
暮らしを営むことが、心を支える明かりになるのかも。
そんなふうに、私の人生の哲学の一部となっていきます。
みかんゼリーは、人生のみちしるべ。
夫は、みかん缶を買い物かごに入れます。
なんか夫、時々意外なチョイスしてくるんだよなぁ~
みかん缶ですか? あなたみたいな人は焼き鳥缶じゃないの? なんて、夫に対して失礼なことを言ったりもして。
祖母はもうこの世にはいません。
亡くなって10年ぐらいが経ったかな。
みかんゼリー、レシピとか聞いとくんだったな。
でももしかしたら、レシピ自体なかったかもね。
ま、またきっと思い出すみかんゼリー。
私の人生にともる、小さな明かり。