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ホフマン窯の火が熄えるとき
🔹窯の上の職工たち
ふたりの工人が黙々と働いていた。
周囲に"粉炭"と呼ばれる細かい粒状の石炭を盛った木箱が並び、辺り一面その粉と煤に覆われている。
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ときおり、工人のひとりが足もとの孔(あな)から引き上げる鉄製の棒だけが、その先端から鮮やかな炎の色を放っていた。
立ちのぼる熱気に聞きながらも、私は夢中でシャッターを切った。
日本ではもう見ることのできないホフマン窯での実作業である。ここは燃えさかる窯の上、つまり窯の天井裏だ。
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ホフマン窯とは、登り窯を平地で長くのばし、端と端をカーブさせてリング状につないだ形を描いてもらえばよい。
輪環窯とも呼ばれ、その周囲はおよそ150mから250m、建坪は大きなもので500坪近くにおよぶ。
煉瓦の大量生産を目的にしたもので、発祥は1858年、ドイツ人フリードリヒ・ホフマンの考案によるとされている。
原理は明快だ。煉瓦の素地を窯の中に詰めて点火、計画的に燃料を補給し、焼成を少しずつ一定方向へ移していけば、やがて火は一巡して最初の房へと戻ってくる。
側面におよそ5m間隔に戸口が設計されており、そこから順次焼き終えた煉瓦を取り出し、ふたたび素地を積めば、火を落とさずに際限なく焼き続けることができる。
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こうした独自の焼成システムゆえ、外観の一部にユニークな特徴がある。窯の天井部にある投炭口、文字どおり燃料となる粉炭を投げ入れるための無数の孔だ。
窯の上から眺めると、どんぶり茶碗を供せたようなかわいらしい鉄の蓋をかぶり、列をなして並んでいる。その風景には、古き工業生産の現場に見いだせる素朴な美しさがある。
🔹現役だったホフマン窯
作業は二手に分かれていた。ひとりが鉄蓋を先の曲がった棒に引っかけて持ち上げると、粉炭をショベルですくい取り、孔の中へと投げ入れていく。もうひとりは鉄の棒を孔に差し込んだり引き上げたりしている。
どうやら棒が沈む深さを測っているらしい。煉瓦は焼成段階で1割ほど縮むため、全体の高さがどの程度下がったかを見れば焼きあがり具合を判断できるという。
窯の下では、これから火が廻ってくる房の口をふさぐ者や、焼きあがった煉瓦を運び出す男たちがいた。いずれも職場としての過酷さは言うまでもない。
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しかしながら、こうしたホフマン窯が今も現役で稼働するここ韓国の地では(この取材をしたのは1991年。以下に記すデータも当時のものです)、建築の材料として、あるいは産業そのものとして、その健在ぶりは驚くほどである。
当地の煉瓦工業共同組合によれば、国内に残る現役のホフマン釜は49カ所。合理化されたトンネル窯の導入に対して、ホフマン窯がまだ3割を維持しているという。
煉瓦産業全体の総生産量は、不況時ですら年間12億万個、好況を記録した90年度で16億万個。この量は日本の比ではない。過去、日本国内において最盛期を記録した1918(大正7)年の数字、約6億万個を引き合いに出せば瞭然であろう。
ちなみに現在の日木では、6,000万から6,500万個といわれる。
当地の最大手煉瓦メーカー・二和産業(株)を訪ねた折、会長の雀(さい)氏が、流暢な日本部で静かにこう話った。
「私どもの一ヵ月の生産量が、ほ日本全国の年間の総生産量に匹敵するはずです」
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🔹海をわたる煉瓦
ホフマン窯で焼かれた煉瓦の魅力は、その深みのある色とテクスチュアにある。そしてまた、一つひとつがさまざまな貌を見せてくれることだ。
しかしそれは、焼成システムからして容易に想像しうるように、窯の中の位置によって生じる焼きムラを意味する。煉瓦と聞いてまず思い浮かべるいわゆる「赤煉瓦」の色もあれば、赤紫色から黒色を呈するものもあり、なかには粉炭が過度に付着して黒々とツヤを帯びたものも少なくない。
かつてホフマン窯が稼働しはじめた頃(明治時代)の日本では、このような色の不揃いは決して好ましいことではなかったという。赤煉瓦を“並焼き”と呼び、一等品と二等品に分け、黒っぽく焦げたものを”焼きすぎ”とし、三等品とした。
東京駅の例で知られるように、外から見えない躯体煉瓦は焼きムラがあっても良しとし、外装となる化粧煉瓦は一品一品の仕上がり、すなわち色調を揃えることが命じられた。
手のひらサイズの集積にほかならない煉瓦建築に対して、風景としての均一性を求めるのは、過酷といえばあまりに過酷である。そこには、帝国主義の道を歩みはじめた青年国家としての並々ならぬ意志を読み取ることができよう。
かくして窯の技術改良は、安定大量供給の名のもとに、ムラなく低燃費で効率よく焼きあげることに費やされてきた。
時代は下って、瓦の前入先がおもに重化学工業の設備投資に向けられた1960年頃から70年にかけて、日本の煉瓦メーカーはこぞってトンネル窯への転換を果たしてきた。重油を燃料とし、温度をコンピュータに管理させ、安定したスピードで素地を乗せた台がトンネルの中を移動するこの窯は、従来の望みを高度に実現した。人手を必要とする工程を大幅に省き、製造コストの節減まで見事に果たしてくれたのである。
ところが、こうしてすっかり過去のものになっていたはずの不揃い煉瓦が、近年、『ホフマン煉瓦』と呼ばれ、静かな人気を得ていると聞く。
「日本国内には、稼働しているホフマン窯はひとつもありません」
「では、この商品は……?」
日本煉瓦製造(株)のパンフレットにうたわれた”ホフマン煉瓦”の文字だった。そもそも赤煉瓦のカテゴリーに入るもので、そのような呼び名はなかったはずだが……。
韓国行きの思いはそこに始まった。
輸入煉瓦の割合が年々増加している。オーストラリア、イギリス、オランダ、カナダ産などが主で、国内産煉瓦の需要と比較すると、現在、3割強を輸入品が占めている。そのうち、なかでも韓国の”ホフマン煉瓦”に力を入れている深川建材工業(株)の例では、年間5万から10万個を購入しているという。
韓国産煉瓦の日本への輸入は、1976年から始まった。当地の数字によれば、動きのなかった年度を除いて年平均およそ40万個、多い年には110万個を記録し、現在までのところ約400万個が海を渡った計算になる。
各国からの輸入総量に比較したらわずかではあるものの、国内では焼けないさまざまな色のテクスチュアをユーザーが求めはじめた証であろう。
それにしても、なぜ韓国にはたくさんのホフマン窯があるのだろうか。それはなぜ今まで残ってきたのだろうか……。
🔹日帝時代のホフマン窯
韓国の煉瓦産業は、現在、日本の20倍以上の生産量を誇っている。いかに韓国建築界に瓦造りが浸透し、定着しているかを物語る数字だ。それは街のなかをちょっと歩けば、誰もが唸らされるほどである。
だが、ひとたび韓国の歴史を紐解くと、そこには激動期に蒔かれた意外な事実が浮かび上がってくる。かつてこの地にホフマン窯を持ち込んだのは、帝国主義時代の日本人だったのである。
その昔、朝鮮半島における一般の民家は、日本と同様に木と藁の家だった。一方で花崗岩が豊富な国ゆえ、宮殿建築に石を用いた歴史は古い。煉瓦造りのものが現れるのは、18世紀の「水原城」の造営が最初で、だがこれは中国大陸から学んだ”磚(せん)”とされる。その後は民家でもこの磚が使われていくが、少量に過ぎず、中国からの輸入品だったという。
西洋式赤煉瓦の本格的な使用をみるのはトリック系の宗教館、神学校、聖堂などの造営のときで、そのうち「明洞(ミョンドン)聖堂」だけは国内産の土で製造した(1892年)とされる。これが当地における最初の煉瓦製造である。
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そして、まさにこの頃、日本軍による侵略の歴史がはじまる。
当時まず手を染めたのが鉄道の敷設だった。列強との利権争いを経たのち、当地の人々の多くの犠牲の上にようやく北と南を繋ぎ終えたのは、1904(明治37)年のこと。
この京仁線と京釜線敷設の際、橋梁やトンネル建設などに煉瓦が使われた形跡を、ほどなく発行された『韓国鉄道線路案内』のなかの写真が伝えている。
煉瓦造りのノウハウにかけては、日本はすでに西欧から土木・建築両面において吸収し尽くした時期だから、それは当然のことだろうが、ではこのときの焼成用の窯はいったいどうしたのだろうか。単窯や登り窯程度では大量供給に間に合わない。
ここに、”ホフマン窯導入”の機が見いだせる。
「本窯は、もと京釜鉄道敷設工事煉瓦焼成用として志岐組の築造せるものにして後、云々……」
(『朝鮮総督府調査資料』第18輯・朝鮮の窯業/1926年)
これが唯一、私が特定しえた事実関係である。
ただし、日本でつくった煉瓦を船に積んでわざわざ運んだ形跡もあることをつけ加えておきたい。
同資料は、その後の当地における煉瓦産業の発展ぶりを教えてくれる。1904年設立の「き煉瓦工場」を皮切りに、民間の煉瓦工場は毎年平均2件、ないし3件の設立を続け、1924(大正13)年の統計で43の工場が稼働している。
ただし、これらのうち2社だけにしかホフマン窯使用の記述がないこと、また、ほかは建坪や年間生産量から推測して、ほとんど単窯などの小規模のものではなかったかと思われる。
ホフマン窯の導入に際しては、当然ながらかなりの資本が必要だったのであろう。
一方、官営の煉瓦工場「度支部(たくしぶ)建築所煉瓦製造所」が、1907(明治40)年に設立された。登り窯3基のほか、ここにもホフマン窯築造の記録がある。官が腰を上げたということは、すなわちその後の植民地時代を築く中枢部の大建築に煉瓦が多用されていったことを意味する。
終戦までの間、いったいどれくらいの煉瓦工場が設立され、ホフマン窯が全部で何基つくられたのかを知る資料はない。
だが、ひとつはっきりしていることは、すべての民間企業において大半の資本を握っていたのは日本人であり、そのために韓国国内の資本、すなわち民族資本の蓄積を阻み続けたまま戦後を迎えたということだ。
今も多くのホフマン窯が残っている理由は推して知るべしであろう。
🔹白日夢のなかの煙突
ソウル市の中心から南へ30kmほど下った”水原”の地にある「Dong bo社」という煉瓦工場には、日本統治時代につくられたというホフマン窯の、巨大な煉瓦造りの煙突だけが残っている。
高さ24m、断面が四角形をしたその脇腹には、「水原窯業」という漢字が並んでいた。文字はかすれかけているが、規模といい、プロポーションといい、それはまるで過去の力わざを見せつけるような代物だった。圧倒的にそびえ立ち、凋落の感じはない。
私は幾度となくカメラを向けていた。
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帰りぎわ、以前この近くを訪れたとき登った水原城のことを思い出した。そうだ、この煙突をあの城の頂から眺めてみよう。
夕景の町の一部に、その煙突を見つけた。
当地の友人が指さして言う。
「あれがそうですね。手前のほうにあるのは、別の工場の煙突ですね。あれは……」
不意に、ある風景が脳裏をかすめた。眩い光のなかで、大地から空高くのびた何百本という煙突が、一斉に煙を吐き出している映像だった……。
韓国では今も、煉瓦素地の乾燥を野外での天日干しでおこなっているところが少なくない。
この場合、春から秋までの季節は問題ないが、寒気のなかでは素地に含む水分が凍結してしまう。だから冬は作業を休止せざるをえず、ひたすら春の到来を待つ。そして、ある晴れた日の朝、窯に火を入れる。
ただし、近年は大気汚染対策への配慮から、多くはサイクロンを設置したり、努めて無煙炭を用いたりしているようだ。だから濛々と煙を吐き出すような風景はもうありえないわけだが、10年前、20年前のホフマン窯全盛期に遡れば、あるいはそんな風景がほんとうに広がっていたのかもしれない。
韓国のホフマン窯も、やがては熄えていく運命にあるだろう。世界的に厳しくなる公害問題の矛先としてばかりでなく、作業の多くを人足に依存しており、その苦役は否めないからである。
誤解を恐れずに言えば、こうした忍耐作業が国家の屋台骨だった時代は、日本同様、もはや過ぎ去ろうとしているように思える。ほどなく工人を確保できない日がきても不思議はない。
私は”ホフマン煉瓦”の体温が好きだ。けれど旅の途上で、それはどこかしら物悲しさを覗かせる色を帯びてしまった。
(初出:『SPACE &』1992年9月発行18号/三菱レイヨン製品事業企画開発部)
※本文中にも記しましたように当原稿の内容、および掲載写真は1991年のものです。したがって当時のデータはもとより、風景もまた大きく変わっていると思いますので、その点はご容赦願います。
※歴史認識などに事実誤認がありましたら遠慮なくご指摘ください。
日本で稼働していたホフマン窯の一つ「野木町煉瓦窯(旧下野煉化製造会社煉瓦窯)」が2007年に近代化産業遺産に選ばれ、一般公開されています。