人とは、その定義とは、生とは

人とはどう定義されうるか。それは他人が、いや、もっと言えば他の生命体が、自分という存在をいかに感じうるかと言うことである。感覚器官を通している以上、自分と他者が捉えた自分は常に乖離している。他人は常に、思考の面でも、三次元の面でも、自分のことを真に知ることはない。つまり、他人を知ると言うことは、その他人に関して五感から出たデータを元に自分の中でそれを再構成してできた像を見ると言うことであるから、一種のデータを見ているようなものだ。さらに言えば、現代ではデジタル機器が発達し、ビデオや写真で人の過去を窺い知ることができる。私たちにできるのは、その記録から他人という像を再構成することだけだ。だがそれは常に当人の思考、そして記憶とは乖離している。ここにヘーゲルのいう弁証法を見出せるかは私には分からない。結局のところ、人が存在している、というのは、なるだけ詳細なデータをこの世に残す、と言うことではないだろうか。というのも、人の寿命は何百年もない。とするなら、何百年ももつデジタル機器に記録を残した方がいいだろう...そして、その瞬間に生というものは拡張される。というのも、人の死には2種類あると私は感じているからだ。一つ目は、よく知られている、生命活動の停止として定義される死。二つ目は、皆から存在を忘れられる死。存在を忘れられなければ、人は生きている。仮に人が存在していたとして、それを感覚器官で捉えて、結局は頭の中のイメージ像を作り上げて認識しているのだから、単なる故人の想起と何の違いがあろうか。頭の中で像を作るという点では同じなのではないか...だから、この世界に、体系化された記憶を残す。それが、真に生きるということではないのか。

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