『Multilingual Subject』 (C.Kramsh)①
論文作成のための理論的枠組みとして、指導教官から助言のあった
「Multilingual Subject」を読みながら、自分なりにまとめてみます。
(なお、大学院入学前の「課題図書」のメモ作成というレベルです。
理解が不十分な点や試行錯誤、迷走がある点、ご了承ください。)
はじめに
The subjective dimensions of language言語の主観的次元
Kramshの言語観(P18)
言語は社会的相互作用のための透明で中立的な道具ではない!
言語は合理的思考のための道具として、事実の真実や情報の表現と伝達のための道具として、安定した、一般的に合意された現実の記述のための道具として、主に教えられ、学ばれてきた。⇒が、そうあるべきではない!!
言語は話し手と聞き手の身体における感情的共鳴から切り離すべきではない。言語は現実そのものを構築し、現実に作用し、話し手と聞き手の関係に影響を与える象徴体系である。
⇒さらに言語は・・・
記号であるだけでなく、意味生成システムでもあるため、言語は、私たちが「自己」と呼ぶ意味の歴史的堆積を構築する。
Kramshの考える言語学習とは(P19-20)
(第二言語学習環境ではなく、外国語学習環境であっても)
言語学習の経験そのものには成功も失敗もない。言語学習は、どのような習熟度に達したとしても、多かれ少なかれ有意義に生きることができ、多かれ少なかれ変容することができる。(しかし言語教師は・・・)新しい言語の音楽、その音やリズム、形や構文から生徒が連想するものを理解しなければ、生徒が意識的にせよ無意識的にせよ、自分自身のアイデンティティを構築していることを把握することはできない。
外国語学習環境における学習者とアイデンティティについて(P21)
(外国語学習環境では学習者自身が新しいアイデンティティを構築することはないという考え方に対して)⇒いや、そうではない!!
実社会から切り離された場所で外国語を学ぶからこそ、若者たちは自分たちの世界への不満や、よりよい世界への夢を外国語に投影するのだ。彼らにとって言語とは、単にやる気のない形式的な構成物ではなく、生きた具体化された現実なのである。言語とは、単に符号化された意味の集合体であり、知的に把握され、認知的に内面化され、社会的文脈の中で応用されるものではなく、むしろ、彼らの心の奥底にある願望、意識、葛藤を表現するための潜在的な媒体なのである。
感想・気づき
1.(Kramshの言語観に基づく)言語はとてもなまなましく、話し手の
身体から出る体温と同じ熱を帯びた「媒介」である。
2.多言語話者の私にとって、そうした言語の生々しさや熱さは、
肌感覚として共感できる。
3.よって外国語学習は単に成功・失敗という二面的な評価を
されるものではなく、学習者の人生に粘りつき、絡みつき、
人生左右する力を持つ。ゆえに学習者のアイデンティティ形成
や変容に深く関わるものである。