『市民参画』のまち、社会へ。
今日は北九州市長選挙の投開票日です。
投開票日当日の選挙に関する活動は禁止されていますから、今日のこの記事も内容に要注意ですね。
どう推察してもフラットな内容になるように努めます。
『投票に行きましょう!』
これならOKでしょう。
好きっちゃアカデミーでも連携している、中牟田リラさんが、市民参画社会の実現に向け、大活躍されています。
「投票率60%が目標」若者が取り組む“北九州市長選の投票に行こう”~前回は過去最低(RKB毎日放送) - Yahoo!ニュース
SNSや街頭で、投票に行こう!って発信されています。
とっても素晴らしいです。
ぼくたちも彼女らの熱量に刺激をいただきます。
誰に投票してほしいとかではなく、市民参画のまちづくりを目指しています。
市民参画のまち、社会の実現に向け、あまり考えがまとまってませんが、書いてみたいと思います。
冒頭のイラストは、たおんぼ|noteさんの作品を使用させていただいています。ありがとうございます。
①参加でなく参画。でも、まず参加。
参加と参画の違いは関わりの度合いかと思います。
フラッと輪に入るだけは参加で、この輪をどんな輪にしていこうって一緒に考えるのが参画ということかと思います。
「このまちなんて、どうせ・・・」とか
「政治なんて、私たちの思いを反映してくれない・・・」とか
投票にも行っていないのに発言する権利もないと思います。
どこまで参画できたでしょうか?
もちろん、声の届き方っていうのはあると思います。
全てが反映されるわけではないと思います。
参画したとて・・・ということかと思いますが、まずは参加するところから始まるのかと思います。
ぼくも正直に言って、政治なんて興味ないし、推している政党なんてありません。
でも、投票には行く。
さて、どの候補者の名前を書こうかと思ったとき、調べたり、まわりの人たちの意見を聴いたり。
参加することから始まるのかもしれませんね。
②サービス型社会、損得社会、選択型社会
市民それぞれが、参画していく、という風習はどんどん薄れているように思います。
みんなで田を耕し、
みんなで神輿を担ぎ、
みんなで子どもを育て、年寄りの面倒を見て、
冠婚葬祭にまち総出。
そんな時代ではないですよね。
そんな時代は、参画することで生活があったのだろうと思います。
いまは、何でもサービスに置き換わりました。
人が関わりあうこと、負担し合うことへの感謝を『マネー』で表現する時代です。
参画の必然性は低くなっています。
マネーでの損得勘定で推し量るようになってしまいました。
自分が参画し、負担することのコストと、
そのパフォーマンスやメリットを追求するようになってしまいます。
集団性を重んじる社会のなかで、同調的になっていきます。
地域や会社で同じことをする。
半強制的とも言える、参画の仕方や集団性が良くも悪くもあったかと思います。
しかし、現在では「パワハラ」とも括られかねません。
参画することに、『同意』が求められます。
そこに住まうから当然にして、住民の自治組織があり、
我が子が学校に通うから当然にして、PTAがあり、
そこに居るから当然参画するという、いわば半強制的な関わりは、
加入するかどうか?という『選択』による同意を求められます。
なので、参加しないという人も出てきます。
関わりの縁を自ら選択する『選択縁社会』になっています。
③無気力・無関心世代
ぼくたちが社会に出る頃、『無気力・無関心世代』と言われました。
高度経済成長とともに、社会全体が豊かになっていき、不自由なく育っていった世代と言えるのだと思います。
競争型社会に疲弊して、学歴社会もだんだんと崩れていきました。
ハングリー精神に乏しく、無気力でも生きていける。
バリバリの資本主義の中で、関わりの仕組みの民業へと変わっていきました。
人は人、自分は自分。
自分には関係ないと、無関心になっていきます。
ボランティア精神なんて言うのはとっても薄い世代だと思います。
これはこのときの世代だけじゃなくて、ずっと続いているテーマなのかもしれませんね。
でも、最近の学生などの若い世代の皆さんと関わっていると、ボランタリー精神は強いですし、SDGs世代が育っていってるのだろうと思います。
④市民参画のまち、社会へ。
どんな場面であろうと、人と人とが関わりあって生きていくとき。
そのまちや社会においては、市民参画が充実していることが望ましいとぼくは思っています。
色んな人がいて、色んな人の考えや行動があって良いと思います。
色んな人の声や意見を掛け合わせて、暮らしていけるまちや社会でありたいと思います。
言葉がカッコ良すぎるし、言葉にしてしまうと、程遠いような気もしますが、『市民参画』のまちでありたいと願います。
この根本的な願いを抱え、個人的な活動を実施・展開しています。
まちづくり・地域づくり・未来ディスカッション。そんな取組みです。
⑤社会の一員
自分と社会との繋がりを考えるとき、
自分自身が社会の一員であると感じることができるのか。
はたまた、
社会の一部が自分自身であると思えるのか。
そんな双方の繋がりが考えられると思います。
自分と社会は別物だと思ってしまったとしたならば、当然にして参画意識に乏しいでしょう。
なかなか実感できることではないと思いますが、自分が社会の一員であり、こんな自分さえも社会を構成している一人なんだということだと思います。
意識はどうあれ、誰しもがそうなんだろうと思います。
⑥無関心、不関心、未関心
無理矢理にでも、参画してもらおうとするのは違うんだろうと思います。
自ずと参加・参画してもらうこと。
主体的に参加・参画してもらうこと。
が大切なんだろうと思います。
参画していないことをもうちょっと分解してみると、
『参画しない』『参画したくない』『参画することがない』
というようになるのかもしれません。
関心をもつことが一歩目かと思いますので、
「無関心」という言葉で整理してみようと思います。
日常用語で存在するのは無関心という言葉だけですが、
『無関心』、『不関心』、『未関心』に分けられるのかなと思います。
無関心・・・関心が低い、関心が足りない
不関心・・・関心したくない
未関心・・・目に入っていない、関わる場面がない
無関心には、興味関心が増すようなアプローチが良いと思いますし、
不関心には、根本的な課題があると思いますし、
未関心には、関わりの場面を設けていくことで変化していくと思います。
⑦関心・参画のきっかけづくりを
何だか難しい考察を書いてきましたが、
関心を持つきっかけ、関心が持てるきっかけをつくっていけると良いなと思います。
色んな手段や方策があろうかと思います。
自然発生的に生まれてくることがステキなんだろうと思います。
本人の自意識だけに頼っていては、なかなか向上するものじゃないと思います。
地域づくりにおいても、
社会づくりにおいても、
そうした目線・視線を持ちながら取り組んでいけたら良いなと思います。
長々とした難しい話になってしまいましたね。
タイミング的にも、抽象的に書かざるをえないというのもありました。ご了承ください。
でも、漠然とした課題意識を言葉にすることができて良かったです。
今日もご覧いただきありがとうございます。
<1年前の”今日”の記事★>
原監督の本で学んだ話ですね!!