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「美しい花」と「花の美しさ」

今日は桜雨ですが、そろそろ見頃になってきました。

「くまもと花とみどりの博覧会」が開催中です。

小林秀雄の当麻(たえま)という作品に次の文章がある。

「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」。美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深遠だから、彼はそう言っているのだ。

「モオツァルト・無常ということ」(新潮文庫)

この「花」については出典に注解があり、「世阿弥の能楽論の用語。観客が珍しいと思い、面白いと感じる演技の魅力、の意」と記されている。つまり、具体的な心身の動きで魅せようとする演出が花であり、その花によって観客の心が揺さぶられるとするなら、そこに花があると思われる。小林秀雄は美学者を茶化しながら、美は具体的なものを指し、頭で考えてわかるようなものではない、と言っているのでしょうか。

先日、にっぽんの芸能を見た。梅若実玄祥さんがバレエダンサーの上野水香さんとダンサーで俳優の大貫勇輔さんとコラボした新作である。異色の組み合わせだからどうなるのかなと思って見ていたが、梅若実玄祥さんの「静」とダンサー二人の「動」がうまく融合しておもしろい能の世界が生まれていた。つまり美しい「花」を見ることができた。

もちろん、「花」を能の世界に限らず、植物の花とみなすこともできるでしょう。美しい花は眼前の実在物だが、花の美しさは観念に過ぎない、とも解釈できる。ただ、実際に美しい花を見た後、花の美しさが内面の風景として心に残っているような気がする。花の美しさを言葉で言えなくても、これが花の美しさだと指し示すことができなくても。花の写真を撮りながらそう思った。

写真は、Nikon D610 とAi-S Micro-Nikkor 55mm F2.8 の組み合わせです。

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