建築の新しい在りようへ② — 標識 signo、 「画餅不充飢」 そして 表現 exprimere から
序 ; 近代は「標識」の論理に陥ったままである
感染症パンデミックの現況において、世界は政治、経済を主題にして揺動をしている。
日本での「三密」は、久しぶりに空間の問題を浮上させているが、影響は「建築」という事柄にまで及んでいない。
表裏があるように、IR、Expoなどのイベント、またAI やuniverse の科学技術の進展は裏生地かもしれない。
その状況で、「建築の新しい在りようへ」を問うことは、単刀直入に言えば「言葉Logos」への回帰である。
世界は「はじめに言葉ありき」である。建築の歴史も言葉によって開かれていった。
副題のスピノザや、道元の言葉も、言葉の名辞・概念である。
近代建築も所詮歴史上、一つの様式に過ぎない
とアーツ・アンド・クラフツ運動をになった建築家が述べている。(ウイリアム・リチャード・レサビー(1857-1931 )ではなかったか、と記憶している。)大学研究室での卒論の一環で、イギリス20世紀前後の運動を扱う中でこの言葉に出会って強い印象を受けた。
建築家の名前はうっすらとであるが、文献については覚えが残っていない。印象の強さだけが、持続してきたのである。
このように当該の建築家が名指した近代建築の動きを察知したのは、おそらく20世紀前後に入ってからのことだろう。
コルビュジェの『建築をめざして』、『今日の装飾芸術』など、また1920年代の作品群についての情報も知り得ただろう。その主意は時代に連関する建築の在り方を「様式」という形で規定したことに基づいて、近代もその時代の様式が存するのは至極当然であるというところから来ているのか、そうではなく、近代建築という名辞を体することがこれまでの style という志向の働きとは根本的に異なる、という見解にたいして違反を唱えたものなのかは、手許的にはこちらに判断する材料はない。
ただし本稿は後者の視点がより彼の意図を表明するものと考える。ゆえに、そのようななか、近代建築は傲然と「標識」の論理から生起したものである、とする。
近代建築の始まりをいつに措定するかはさまざまに考えられるようだ。
様式の歴史から、それでは近世期をいつまでとするかも曖昧のように見える。様式史的に見れば、バロック、ロココという範疇はルネサンスの成熟からの熟爛過程と考えれば、近世は近代の直前まで継続されたとも言える。
リバイバルや折衷様式の時代を介したとはいえである。強大な権力機構のもと、建築家という各自が建築論を引っ提げて世界に登場するルネサンス、その代表的な存在の一人であったアルベルティ以来の、様式的表現の系譜を根本的に変更する明確な、新しい概念としての「政治」「経済」が台頭してきたのである。
ところで近代の捕まえた一つは、このストーリーに沿ったように「生産」という概念であった。
産業革命と連動する Capitalism がそれを駆動させ、 各国に現れる革命の後にみえる Democratism がそれを普及させた、と言える。
「生産」に沿って合理や機能などの言葉が随伴される。
近代の建築においても、様式からの「分離 Secession 」と、「新しい芸術 Lʼart nouveau 」への期待を介して、それらの言葉が「標識」となり、科学技術によって生まれる機械技術による生産品が模範とされたのは、歴史的証左である。
この旗振り役が建築家ル・コルビュジェである。近代を標榜する時代の象徴でもある複製、量産、印刷技術を駆使した書籍、雑誌という印刷物を介して、建築物という歴史を背負って来た個物たちの意匠である様式、装飾に対する攻撃を連続的に産み出したのである。
一方で、生産の象徴たる機械、大量生産品を小さな大量のパルテノンとして標榜し、その認識を大量の情報にのせて、民衆に周知し続けた時代が近代の端緒であった。
思いかえせば、コルビュジェの1920年代の作品の系譜から逸脱した、突然の1950年代のロンシャンの出現(こちらはデザインの観点からの解釈で言えば、彼の近代建築五原則の思想は生きられているように考えているが、)は「標識」から離れ、建築の遡源と言う事柄への素朴な帰還といえる。
ここにおける思考方式は、不可視的世界に侵入した「経済」と global に緊縛される「政治」へと移行し、スピノザが人間精神を規定した「精神的自動機械」の方向性の中、現在のAI以降の世界の方向性を今日も継承し続けている。
その意味で、近代は「標識」の論理に陥ったままであると見える。
その方向づけにおいて、近、現代建築は、「政治」「経済」の概念に解体されて行ったように思えるのである。
「標識」、この言葉は哲学者スピノザが方法とは何かを提示した、著作『知性改善論』に現れる言葉を取り上げたものである。
「---形相的本質を感受する様式こそが確実性そのものであることが明らかである。これによってさらに、真理であることが確かになるためには、真の観念をもつこと以外なんら他の標識を必要としないということが明らかである。」(強調筆者)
つまり、ある事柄を明らかにすべく精神が観念を繰り出すとき、この観念、真の観念にのみ真理が包摂されているのであり、他の標識を必要とすることはないと言っているのである。(『知性改善論』(第三十五節)からの抜粋である。)
標識を求める限り、その標識の正否のための別の標識を求めることになり、無限遡求の論理に堕してしまう、とスピノザは言う。
その通りの展開が今日へと至っている。
「建築の新しい在りよう」の真理を求めるためには真の観念をもつこと以外に、「他の標識を必要としない」のだから、標識の論理に陥ってしまっている近代建築には求める解はないといえる。
ただし、順序の概念から、既存の在りようは存在していることから、始めなければならない。
それではどこに在りようを求めるかが、現在のわれわれに課せられている事柄であろう。
本稿との関わりで考えれば、建築の在りようの命題に向けられた観念はおそらく、一つの方向として arche や techton という建築 architecture の語源に求めることになるだろう。
しかし、ここには常套手段的な知の作法の範疇を超えず、いまの手立てが見えないかぎりの、歴史的知への回帰に閉じてしまいかねない。
果たしてその方向だろうか。そうではないだろう、と考える。
というのは、その解自身が標識に求められるのではなく、真の観念を捕まえていかねばならないのだから。
1 ; 画に描いた餅でなければ、飢を充たす効能はない
次に、「真の観念」を求める過程に現れる思想に、そしてそのことを充当する「表現」に立ち向かわなければならない。
道元の『正法眼蔵』の「画餅」の巻の言葉、「画餅不充飢(がびょうふじゅうき)」を取り上げる。 というのはこれは、万物はまず「表現」であり、「表現」の観念について取り扱っており、「表現」の原初を開削する思想に充ちているからである。
通読してまず初めに感ずるのは、引かれる事例こそ禅宗に関わる問答等、事象的に時代と抹香臭さも窺われるのは当然であるが、道元その人が看取し、披瀝する観念は日本中世期の前衛 avanguard 思想家としか見えない、ということである。
アヴァンギャルドとは、彼のためにある。世界をあるときは原色に塗布し、あるときは鋭く切り裂いて、凡庸な理知を覚醒させるがごとき感がある。
現代語訳者、増谷文雄は「わたしはひそかに、解釈とは原作の包蔵する以上のものを展開することでなくてはならない、といったシュライエルマッヘルのことばを思い出さざるを得ない」というのも頷ける。
「シュライエルマッヘル」とはフリードリッヒ・シュライアマハーFriedrich Daniel Ernst Schleiermacher のことで、17~18 世紀の敬虔主義の神学者、哲学者である。増谷の言う「解釈」とは、もちろん「画餅不充飢」の道元解釈を指している。道元の解釈のいうところを聞いていくことで、本稿の主題に関する観念を剔出(てきしゅつ)できるのはないか、と考える。
中国、唐の時代の祖師である香厳智閑(きょうげんしかん)(~898年没)の言葉、「画餅不充飢」、「 描ける餅は飢えを充たすべからず」が引かれる。
これも道元が開祖した興聖寺で衆に示されたとある。道元の説法がよどみなく衆に開陳されたと言うことである。それゆえ、衆に向けて高踏的解釈が現前する。浅学非才の身には論理を越えてみえる。今われわれができることはまず、道元の言を逐一に受領することから始めなければならない。のちに、道元の世界観を自らに問いかける形で本稿の主題にアプローチしたい。
「画餅不充飢」、この言葉が一般に意味するのは、絵に描いた餅は、餅でも画であって飢えを充たすことはできない、あるいは、社会的な通念では、ある事業は予算に比して構想壮大にして、絵に描いた餅に過ぎない、というような使い方がなされてきた。
この理解レベルではこの言葉が、道元の『正法眼蔵』の「画餅」巻からの出自であることに不知であるように見える。この意味内容では、五文字格言事例というような範疇で止まっていたのだろう。
改めて精細にそれを読んでみれば、下記のごとき驚くべき道元の言葉に込めた解釈に出会うことになる。
すなわち「画餅にあらざれば充飢の薬なし」、現代語訳で言えば「えがける餅でなかったならば、飢えを充たす効能はないのである」、と。
これは一般の、あるいは社会通念上の解釈の真逆である。道元の言わんとするところを辿ってみよう。
はじめに、香厳智閑の言葉であるということで、仏教の範疇で悟りへの方便にたいする至らなさのような解釈がある。それらはすべて誤りであるとして、弁道(仏道修行)的解釈を排除する。
次に、画餅と、不充飢に分けて論は展開する。「ともあれ、いまや描ける餅なるものが現実にあり、またその表現があるのである。それは、えがいた時にはあり描かない時にはないのだと、そんな具合に考えてはならない」。
描かなくとも描いた餅があるとは、どういうことか。
描く、描かれないではなく、まず「画餅」がここにいま描かれて在ることから始める、ということであろう。同書の別巻にある「恁麼(いんも)」、すなわち「このように」、「あのように」在るように在る。疑いようもないものとしてここにある。描く描かない時という現象の地平には存しない。こちらが餅を食らうという情景とは認識を異にしていることがわかる。
描くということ、そのことは山水を描くには青や赤の絵の具をもってするし、餅を描くには米や麦粉を以ってするのであり、仕方は同じであり、米の餅にしろ、「菜餅(なもち)も、乳餅も、焼餅も、黍餅(きびもち)」 に しろ 、「 画ひとしければ、餅ひとしく、そのありようもまたひとしいのであり、」みな画餅なのである。
「そのほかに描ける餅を求めたって、めぐり逢うことはできない」。
実在する個物は画図という存在の「表現」の在り方として普遍化される。
つまり、「--ここには画餅の世界なるものがあって、厳として存在しているということになる」の言における「画餅の世界なるもの」のことである。
存在論における「在る」とはないのであり、在らんとあろうとすることである、に近い。
餅があるかないかではなく、「画餅」はあるのである。概念、名辞がなければ存在しないのである。
主語である「画餅」につづいて、述語部に当たる「不充飢」について触れる。
「画餅」が在る、在らざる餅ではないように、「不充飢」の飢はひもじいことではなく、「所求の心」、「求むる心」と解釈される。
つまり自らを高める、深めることであるという。それゆえ問題は、「画餅なる世界」と「所求の心」との間に「飢に相待(そうだい)せらるる餅なし、餅に相待せらるる飢あらざるがゆゑ」の事態がある。
平たく言えば、「画餅」と「不充飢」の両者がうまく噛み合っていない、というような意味である。
飢=所求の心は自らを高める「一本の杖」と見ることもできる、それを横に携えたり、縦に携えたり自在であろう。道元の突然のこのような振りと転換のこの軽みがいい。杖は手で持つわけで、取り扱いを指示していよう。杖のごとく自在な観念となったものの取り扱いへの意図が感得される。
そして画餅を描くにも多様であり、「一茎の草花」で表現したり 、「ながい修行」 をもって表現したりなどする。
画餅は「表現」という存在であるのだから、すでに描いた餅ではなく、求むる心も相応して自在な杖のごとくに「表現」にまで高められて捉えることで、「画餅なる世界」に相待する飢=所求の心も存在しよう、と言うのである。
つづいて、先師たちの言葉が画図とともに引かれ、画餅を通じた道元の世界観が語られるのである。「道ハ成ル白雪千扁去、画シ得タリ青山数軸来」、現代語訳によれば「道なって白雪は村里をおおいつくした。その時一切は青山数幅の画図に入りきたった」という意である。
道元の解くところは「大悟の境地」、あるいは「弁道工夫の成就」を説いたものであるという。簡略に言えば修行者が悟りを得たという状況であり、それを「道のなれるまさにその時を表現して白雪といい、また青山数幅というのである」。
つまり、道なってとは修行の成就、悟りの境地に至ったということである。それを千扁つまり村里に白雪が降り積もっている情景を数幅の画として描いている。水墨画か、彩色も交えた画図かはわからないが、そこには透徹した空気が漲っている厳冬の風景が広がっているのだろう。
凡愚の徒にとって心引き締める旋律(戦慄ではない調べの方が的を射ていよう)をおぼえる。
道元曰く、画をえがいているのであり、この境地においても、修行においても描かれた図によってなされないものはないというのである、と。
重要なことは修行者なりが悟りを得たという心境を慮(おもんばか)って、このような絵画にまとめたと考えてはならない。
この画図の存在、この「表現」にこのことに関わる事象が包摂されていると考えねばならない。前に進もう。
また、雲門匡真大師(うんもんきょうしんだいし)に教えを請うべく、ある僧が「ひとつ仏を超え、祖を越えたところのお話を承りとう存じます」、「仏や宗祖の教えにとらわれずに、自己本来の面目、つまり在り方、立場を発揮することの話を伺いたい」、と。
それに対し師いわく「それも糊餅(かゆもち)だよ」。
すなわち、どのような心境であるとかの高説とかではない。その心もち、あり方も描かれた糊餅(かゆもち)、つまり「画餅」だというのである。
さらに道元の師匠、如浄禅師の言葉、「修竹芭蕉画図ニ入ル〔修竹も芭蕉も画図に入った〕」が引かれる。
「修竹」とは長い竹であり、また芭蕉はバナナ様の大きな葉を翻す多年草である。二つの植物が軸に描かれたさまを如浄師が語ったのだろう。
万物は中国発祥の思想の二つの気、陰と陽の運行によってなるといわれる。
ここでは修竹、長い竹のことである。
「修竹」は自然の時間の陰と陽の気で成長するのではない、画図そのものの陰陽であり、画中の修竹の年月のうちに現在があるのである。画図の修竹が刻秒を刻んでいるのである。この「修竹の年月のはこび」の世界のなかに万物がそれらしく在り得るのである、と道元は解釈する。
画図が世界の刻秒を、空間を刻み開くというのである。
次に、芭蕉である。「芭蕉は物質的要素である地水火風空と、精神的要素としての心意識や智慧を、その根茎とし枝葉とし花果とし光や色とするのである」。芭蕉の植物としてのありようを、世界における生命あるものの在りようとして開くのである。
道元が何を見るのかの、目色がよく現れている。
芭蕉の外の表れを透視する眼差しを感得できる。それでいて市井人のように、秋が深まりゆくなかでの芭蕉の風情を見事に捉える。
「そのゆえに、秋風がふけば秋風のなかに消えて、一塵ものこすところがない」。
きれいさっぱりしたものである、まさにその通りである。今、通りを歩いている市井人が見る芭蕉の姿でもある。
現在ここにものがあることと、ものの「画餅」の存在の隔たりを、道元は自在に往還するのである。
このようにして「みな画図にほかならない」のだから、画に描いた餅でなければ、飢を充たす効能はないのである、とはじめに紹介した真逆の解釈が続く。
わかりやすい現代語訳解釈が付されている。
えがける餅でなかったならば、飢えを充たす効能はないのである。また、えがける飢えがなかったならば、その人に逢うことはできないのであり、画によって充たされるのではなくては、まことの力とならないのである。さらにいうなれば、飢えたる時に充し、飢えざるに充し、あるいは、飢えたるに充さず、飢えざるに充さぬことも、ただ画餅にしてはじめて能うところであって、(それゆえ、「画餅」も、「画充」も、「画飢」も画餅でなければ、)えがける餅にあらざれば能わざるところであり、またいい得ざるところである(括弧内筆者)
これを学びいたることで、「転物物転」、わが物を転じ、物にわれを無碍(むげ)の関係を結ぶことができる地平に至る、と。
「転物物転」の境地、見事である。理が貫かれている。
「画図」とは何かと言うことがわれわれの眼前に突きつけられている、と言うことだろう。
「画図」こそが、前稿の言葉で言えば、スピノザの「事物の十全な観念」、あるいは西田の「真実在」に関わると推察する。
現代語訳者の増谷文雄は、道元が示衆したものは、一方で「「画餅は飢えを充たさず」というその句の意味するところも、もともとその意にほかならない。」と伝えつつ、彼の腑に落ちたものは「概念と存在と、そして存在のありようである。概念なくして存在は考えられないのであり、また存在のありようも理解せられないのである。」と言う。卓見である。
字義通りの世界があるともいう。それを弁道修行との関わりで捉えるのは比喩の段階の認識であり、的を射ることはない、と道元は叱責する。
そこから本題に入るという展開である。画餅は「その意にほかならない」のであれば、描いた餅であろう。
ところで、われわれが見、聞きするものはすべて描かれた「画図」ではないか。われも含めて描かれ得ないものはない、と言う気づきが発せられる。
万有(存在)も、虚空(非存在)もすべてが画図なのである、と道元が言うのもこの意味である。われが何かを見、聞きするのではないということを理解しなければならない。
「認識とは主体のおこなう作業ではない。観念が精神のうちに定立をみることである」とドウルーズはスピノザの次の語句を受けて述べている。(定立(ていりつ)とは these の訳語で、ある事柄を肯定的に主張することの意である。)
スピノザ自身は、「けっして私たちが、事物についてなにごとかを定立したり、否定するのではない。事物みずからが、私たちのうちで、自身についてなにごとかを定立または否定するのである。」(スピノザ『短論文』第二部 16章の5)という。
我・われも、個物も存在者であり、我・われが個物を認識することはなく、只管(ひたすら)我・われからしか観念は発出しないゆえに、精神のうちに「事物自らが」定立を見るだけである。
主体による定立ではなく、事物自らが精神を通り抜けるのである、に近い。
道元は通り過ぎたものを捉え、洞察し得た。道元の画餅は、認識は主体が行う行為ではないという地平で言われているのだ。
前に引用した「道ハ成ル白雪千扁去、画シ得タリ青山数軸来」の解釈に加えた、「重要なことは修行者なりが悟りを得たという心境を慮って、このような絵画にまとめたと考えてはならない」と述べたが、それはこの意味においてである。
2 ; 表現は「わたし」から発現されないが、「わたし」からしか観念は発し得ない
こちらは建築デザインにおいてこれまで、「わたし」の重要性を述べ続けてきた。
「わたし」は表現の主体ではないことが明らかになってきた今、なぜ「わたし」なのか。
「わたし」からしか観念は発し得ないのであり、表現は「わたし」から発現されないが、そこからしか観念は発しないから。
表現は主体の行為ではない、とスピノザを介してドウルーズはいう。ドウルーズはこうも述べている。
「存在の根拠」(ratio essendi)としての表現は認識の根拠(ratio cognoscendi)としての鏡の中に自らを写し出し、そして胚の中に生成の根拠(ratio fiendi)として自らを再産出する
彼はあらゆる概念は自らのうちに潜在的に比喩的な装置をもつと述べ、「表現」の場合は、鏡と胚である、という。
ここでは興味深く、かつ洒落た引用ということで止めおくことにするが、今後の解き明かす課題としておきたい。
結 ; デザインを主体の表現と解したが故に、それにも拘らず、「表現」自体は今日まで忘れられてきた
そして、まとめに向かおう。個物、存在者は名辞を持する・存在する、すなわち「表現」と捉えるべきである「画図」なのであるから、存在者・個物の在りようは常に「画餅」なのであり、世界に「調度」という恁麼(いんも)のようにある。
餅があるかないかではなく、「画餅」は「このように、あのように」あるのである。
「画餅」は、存在者、あるいは個物は世界に名辞をもって、つまり概念を持すことで在るのである、道元は「画餅」解釈を持ってそのことを指示したと言える。
建築にとってデザインは表現することである。表現主体が表象やアイデアを介して表現するものが世界に企投される、と考えられてきた。
そしてこれまで、介在するものに対してどのくらいの時間が傾けられたのだろうか、またどのくらいの知的資源が生産されてきたのだろう。
さらに、表現する者に関して、表現者の観念に関して、表現されたものに関して際限ない詮索が行われ、かつ配慮されてきたのだろう。
デザインを主体の表現と解したが故に、それにも拘らず、「表現」自体は今日まで忘れられてきた、といえるだろう。
忘却された「表現」自体に着目すること、そのことのなかに建築デザインの改まりの思惟を生み出すことができるのではないか。
「画餅」への見透かしがなければ、「表現」を主体のデザインとする思考の足枷・自縛を免れないだろう。
入江正之(建築家/DFI・早稲田大学名誉教授)2020.12.30 稿了
参考文献
前稿にならう。 (前稿から 3 ヶ月が経過した。咀嚼し得たものは相変わらず僅かである。向かうべき「青山(せいざん)」の塵にも値しない。参考文献たちとの関わりは、5、6年は経過しているだろう。ただ言えることは、「言葉」を窮策し続けなければ、建築の新しい在りようを垣間見ることもできないだろう。)
ドウルーズ『スピノザと表現』工藤喜作、小柴康子、小谷晴男訳 法政大学出版会 1991
道元『正法眼蔵』全8巻 講談社学芸文庫 増谷文雄現代語訳
倉澤幸久、画餅でなければ飢えを充たさずー道元禅師の画餅論—、桜美林論考、人文研究、第11号(2019年度)、p.p.137~154.
中嶋慶太、道元における〈画餅〉の問題—〈不充飢〉と〈充飢〉—、美学芸術学研究、16,p.p.一二三~一四七、1998.
ほか。
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