展覧会レポ:神々の愛に魅了される:ヒンドゥー教の鮮やかなイメージを体験
ある日、チラリと見た展覧会のチラシに、こうあった。
「交感する神と人」
いったい何だろう。怪しい雰囲気にそそられ、つい読んでみた。チラシには、
「五感を通じて、神と交流する」
とある。早急に確かめたのは、主催しているのは誰か、だ。
「国立民族学博物館」とある。国立ではあるが、
「神と交感」
と書かれているので、深刻な表情を保ちつつ、ヒンドゥー神像の世界に惹かれていく。
あちらにはヨガを極めすぎて「全身棘だらけの爺さん」とか、光合成できる「不食の男」がいるというではないか。
神様と交感する体験ができる展示に、行ってみた。
神様とブランコ
会場に入ると、ポスターに使われていたクリシュナ神に出会う。
クリシュナ神の誕生を祝うお祭り。幼い子どもの姿をしたクリシュナ神に服を着せるだけでなく、金ピカのブランコに乗せている。
どこか不機嫌な表情。本物のクリシュナ神はどこか違う。
ふつうに考えると、仏像をブランコには乗せない。
「神様とブランコ」
キリストがブランコに乗るだろうか。大日如来をブランコに乗せるだろうか。
もちろん、インドの方もそんな発想ではない。神様といっても子どものお姿なのだから、接待としてのブランコだ。
子どもを想う気持ちが伝わる。さすが人口世界一になるテクノロジーの国だ。
では、これはどう言い訳するのか。
神様を捨てられない
インドの街には、様々なモノにヒンドゥーの神々が描かれるらしい。
商品のラベルはもちろん、カレンダーやマッチなどの日用品にも神は描かれるんだとか。愛する神様の書かれた商品は、
「捨てられない」
ものだから、神様ロゴの日用品は大切に保管され、ちゃっかり広告として機能しつづける。
カードゲームやタバコにも使われるらしい。
目があう
エキゾチックというのだろうか。神様と目があってしまう。眼力がすごい。「うっ」って声がもれちゃう。
解説には「目を合わせることで神さまも人を認識し、双方向にコミュニケーションを取ることができるという発想がある」と書かれている。
人々が五感を使って交流するための道具としてあるらしいが、…(「ビックリマンシール」の一種にみえてしまう)。
神様を崇めない
意外なのだが、インドの方は神様を崇めない。崇めなどしない、という。
儀礼のなかで、色粉を付けたり、油をかけたり、口元にお供えを運んだりする。それは崇めているんじゃないのか。日本でも、水をかけるなどして敬っているではないか。
インドの方は崇めたり敬ったりしない。
口元にお供えを運び、塗り込んでいるらしい。
どういうことか。
崇めるのではなく、「愛している」から塗るのだという。
神事に使われる道具類は、カレーを砂糖で煮詰めたような匂いがするのかと思いきや、無臭で清潔そうだった。
今、ココにいらっしゃる
日本の神社仏閣では、心静かに手を合わせ神様仏様に思いを馳せる方が多いように思う。インドは、違う。
今、そこに神様がいらっしゃると信じて1ミリも疑わない。
神様は今、人形の体をかりて、現在進行系でそこに宿っている。そう信じるからこそ、沐浴も一緒にやってしまう。
祭りの映像も展示されているのだが、その様子はまさに“熱狂”といっていい。
愛のカタチ
日本人の私からすれば、ヒンドゥー教の神々への想いは、「推し」ということになろうか。
いや、正直にいうと「ストーカー」にみえた(すいません)。双方向の交流がなく、一方通行だからだ。
神像を媒体としつつ、下僕がご主人に尽くす。まるでアニメ『GS美神 極楽大作戦!!』みたいではないか(何度もすいません)。
今日の展示を振り返る。ストーカーのように思えたが、文化の違いかもしれない。
私も、目を閉じ、感覚を通じて、神々との交流を振り返る。
いや、ちがう。ストーカーではない。神様がそこにいるとすれば、愛を返していることにならないか。交感していたのだ。
生活様式は都市化し便利に発展した。しかしなお、神々への信仰は一向に衰えない。
科学と宗教は切れ目なく存在している。
そこに愛があるから、共存できるのかもしれない。
※参考資料
月刊みんぱく 2023年9月号 三尾稔「暮らしに満ちる神さま絵」〈編集・発行〉国立民族学博物館
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