展覧会レポ:人工と自然の境界線を探る「船川翔司」のアート展体験記
【約1,600文字、写真16枚】
人工物と自然物の境目はどこにあるのだろう。日本の森林は、人工林の割合が40%を超えるという。このアート展は、そんなことを考えてしまう。
偽の海
入り口で渡された案内ファイルには、いくつかのミッションが書かれている。まずはこれに挑戦することにした。
どうやら、この扉のことらしい。
こわごわと戸を開けて入ってみると、「ほー、角材とベニヤ板で作ったんですなあ」と感心してしまう。少し暑いが、せっかくだから扉を閉めてみる。
なかは当然、狭くて暗い。
音がする。
壁の外からは、波の音が聞こえる。
海を再現しようとしているのか。真っ暗なのに、安心してしまう。
この音、どうやってるの?
センサー付きの扇風機が回り、巨大なビニールが舞っている。ビニールが擦れた音だったんだ。そういえば、泣き止まない赤ちゃんの耳元で優しくビニール袋をこすると、胎内を連想して落ち着くことがあるという。
数秒とはいえ、海を感じた。海とビニールの違いとは何か。ウミガメやイルカが、海に捨てられたプラスチック製のゴミやビニール袋を食べて、死んでしまうニュースを思い出す。
言葉で考えれば、「自然」とは人間の意識が作らなかったものであり、「人工」とは人間の意識が作り出したものだ。
だから、この展示そのものは人工物だし、人間の体は意識が作り出したものではないので、自然物だ。
でも、この展覧会、そういうことでは許してくれそうもない。
ガラス張りのギャラリー
次に選んだミッションは、「膨らんだり縮んだりする袋の上に、周りに散らばっているものを置いてください。」というもの。
それは一体、どの展示なのか。どこに立っているのかさえ、よくわからなくなってしまう(わたしが方向オンチだから?)。海辺でものを大量に拾ってきた友人宅へお邪魔した気持ちだ。
きっと手前の大きなビニールだろう。
「さわっていいのかな?」
失礼して、小石を落としてみる。
磯に座って海に何かを落とすような、不思議な感覚。波のリズムのようにビニールが膨らみ、しぼんでいる。ゆったりときらめくLEDは、太陽の光に乱反射する波のようだ。自然物の赤い石かと手に触れたが、これはプラスチック製だ。
どうやらこのあたりに、人が自然の素材と感じるか、人工的なモノと感じるか、境界線がありそうである。
こちらは霧の発生装置らしい。霧や雲は自然そのものだ。でも、あのー、これって、アートなの? この感覚はなんだろう?
ファイルのミッションがよくわからなくなってゆく。「アングリーちゃんとペンペンを手に持ってください。」
この人形のことっすか?せっかくだから失礼します。
さわさわ
さわさわ
さわさわ
ああ、ぬいぐるみ。絶妙なサイズ感、おじさんもほっこり。
人工的に作られた動物のぬいぐるみ。会場へ入って、見て、触って、驚いて、船川氏のミッションに没頭してゆく。これぞボットー体験だ。
浮き上がる写真
で、これは何だろう?
船川さんがみえると?
どれどれ?
微妙に角度をずらすと、船川さんは不在だが、屋根からの景色が見える。奥は、海だろうか。そういえば、この不思議な体験の間、作品という概念を忘れていた。タイトルもなければ、チラシもない。
環境問題とアートは対立してしまうのか。アートはゴミを増やしているだけか。
「アート」とはなにか? 「モノづくり」とはなにか?
船川氏の作品は、そんな作品の手前の段階を、どぎつくもハッピーに伝えてくれているようだった。
お麩を食べてみる
2階ギャラリーの下、1階は麩の専門店。上の3階は麩が美味しい「カフェふふふあん」になっています。
清水寺や、建仁寺、六波羅蜜寺の側、三十三間堂や京都国立博物館からもほど近い立地。ですが観光のお客さまは意外に少なく、カフェも空いてます(暑いから?)。
お店の方から丁寧な接客を受け、ゆったりとしたソファ席へ。窓からは、鴨川の納涼床が望めます。
週末の15時頃でしたが、すぐに持ってきていただきました。
「せせらぎ」と題された涼菓。透き通る清流、川底の小石をイメージしたという弾力のあるお麩に小豆。
川面を流れる青もみじのイメージなんだとか。ゼリーの舌触りと、なま麩のモチモチ食感。
左に添えられた黒蜜をかけていただきました。ごちそうさまでした。
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