純粋な感情は今もずっと変わってない(のに?)
4月は毎週noteが書けそうだと言っておきながら結局全然書けなかった…
もう予告はやめよう…
アカデミー賞について書くと言ったけどもうそんな時期でもなく、書こうと思ってたことは別のタイミングで書きますね。
さて、本題に。本題というほど大した話ではないのだが、ちょっとぼんやりと最近思ったことを書きたいなと。
20年ほど前にスーパーカーという日本のバンドがいた。97年にデビューして2005年には解散しちゃった短命のオルタナティブ・ロックのバンド。
今は作詞家として活躍しているいしわたり淳治がギターを弾いて、作詞をしていたバンド。
いしわたり淳治は有名どころだとSuperflyの「愛を込めて花束を」なんかを作詞している人だ。
スーパーカーの曲に「Hello」という曲がある。イントロのベースラインとギターサウンドが特徴的な僕の大好きな曲だ。
「Hello」のサビはこんな歌詞になっている。
明るいロックナンバーだが、サビの歌詞だけ読むと少し暗く、悩んでいるように見える。
そして疑問に思う。
「純粋な感情」とは何か?
「肝心な問題」とは何か?
このサビの前はこんな歌詞だ。
笑いたい時に笑い、
眠りたい時に眠り、
遊びたい時には悩まずに遊び、
叶わない夢を追いかけ続けること
それができずにいるという悩みがあるらしい。
その悩みの解決法が「肝心な問題」なのだろう。
多くの人は、友だちや恋人と遊んでいる時は楽しく遊んで笑っている。
眠くなったら夜には眠るだろうし、
憧れの仕事につけなければ諦めて堅実に就職するし、
恋人に振られれば、次の恋に励むだろう。
そしてそれができないことを確かに世間という「みんな」は「甘いね」って言うだろう。
この歌詞の主体はこのことができない。
そして「純粋な感情」は変わってないのになぜという疑問を持っている。
もしかすると「純粋な感情」があるから分からないのかもしれないと、ふと思う。
「純粋な感情」を持つ人は少数派だ。
なぜなら世の中がちっとも純粋じゃないから。
そんな気がしている。
世渡りが上手い人は笑いたい時に笑い、眠り、遊んでる時に悩んだりしないし、夢が叶わなければ諦めて堅実に生きることができる。
誰かといてもその人の考えが分からず笑えない。
そんな自分のことを思い出して眠れない。
遊びたくても悩んでしまって動けない。
叶わないと分かっていることも諦められない。
これが「純粋な感情」なんじゃないだろうか。
「純粋な感情は今もずっと変わってない“から”」
「肝心な問題がいつになっても分からない」んじゃないだろうか。
そう考えると「純粋な感情」を持っていることってめちゃくちゃ辛いことだと思う。
でも「純粋な感情」を捨て去れたら苦労しないし、そもそも「純粋な感情」を持っていることって悪いことなんだろうか。「甘いね」って嘲笑われて仕方ないことなんだろうか。
そんなこと僕には「いつになってもわからない」んですけどね。