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 コラムのトピックを探すために毎日、教育に関する記事を探すのが日課です。教員時代はここまで様々なトピックを調べる余裕がなく、今となっては自身の学び不足を痛感します。

 トピックを探す中で自分にとって大きな学びになることの1つに、「海外の教育事情」というものがあります。
 私も小学生の頃、わずかの期間ながらフランスで暮らしていたことがありますが、最初にその学校の雰囲気やあり方が日本のそれと全く違うことにびっくりしてしまい、泣いて帰宅した朧げな記憶があります。

 教育システムは、それを運営する国家(あるいは集団)の様々な特性を考慮に入れつつ意図と目的を設定します。同じ「教育」であっても、意図と目的は国によって様々。

以前のコラムでも書きましたが、教員という職業に対するイメージや社会的地位もまた多様だと言えるでしょう。

 私たちにあまり馴染みがない中東の国イランは教育に熱心であり、教員という職業には社会的権威があるそうです。

異文化コミュニケーションアドバイザーの石野シャハラン氏は、イランと日本の教育事情を比較しつつ、日本の教育システムに対して警鐘を鳴らしています。

教師にも教育者として高いプライドがあって、部活動の指導や雑務のため夜9時まで学校にいることはあり得ない。遅くとも夕方5時には学校を出て家族と一緒に夕食を取り時間を過ごす。そうでないと明日朝からいい授業はできない。夏休みには2カ月近くバケーションする。休暇もしっかりリラックスして楽しまないと、長い学期を乗り切れない。

教師は熱心に教え、親は子に熱心に勉強させる。この伝統はたとえ親世代が海外に移住しても変わることはないため、国外に住むイラン人も高学歴の人が多い。あるいは、海外で生活する可能性が日本人よりずっと高いためか、どの国に住んでも困らないよう教育に力を入れているとも考えられる。

とイランの現状と共に

現代の日本は子どもの教育を軽んじ、先生をばかにしていると思う。時代遅れの教育が国の沈滞という取り返しのつかない事態を招く前に、教育改革が必要である。教育の無償化だけでなく教師の待遇改善にも予算を割き、再び世界で戦える優秀な「人財」を生むことになれば、子どものいない人にとっても有益な政策になるだろう。

と日本の教育に対する提言を行っています。

 歴史的に見れば、国家の成長と教育への注力は相互的な関係にあると言えます。現在のイランはGDP成長率も年々上がっています。世界第4位の原油埋蔵量及び世界第2位の天然ガス埋蔵量を有する有数の産油国であると共に、農業や工業も盛んです。

 イランは私たちにとっては、核保有国としてのイメージが強く、最近では2019年にアメリカの経済制裁を受けたニュースが新しいですが、国家としての成長を目指し、その政策の1つとして、教育に重点をおいているのかも知れません。

 一方で彼のいう、教育に対する「権威」は、逆に言えばその反動にも繋がります。今の日本で問題になっている様々な問題の根底には、権威主義に起因するものも多くあります。

昨今はさすがに都市部の学校ではたたかれないようだが、それでも教師には威厳があり、生徒から恐れられ尊敬される存在だ。親は教師の指導に口を出しすぎると「教育方針に異論があるならば転校しなさい」と校長先生に言われてしまう。

と彼は記事の中で語っていますが、これは私個人としては容認できることではありません。教育は決して「国家」のためにあるのではなく、「個人」のためにあり、だからこそそこに多様性が生まれ、様々な能力を活かすことができる人材が育ち、結果として、その国家を豊かにするのです。

 同時に、学校教育というものの「価値」について、日本が再定義することが必要なことはまた事実。様々なツールが発達し、学校に行かずとも学びを進める状況と、その画一的な体制が多くの児童・生徒にとって安心・安全でない場所になっているが故に学校教育の価値が低下していることは悲しいこと。
 大切なのはお互いへのリスペクト。教師と児童・生徒がお互いに敬意を持ち、より良い関係性を築くことができる学びの場としての「学校」が必要なのだと思います。

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