#250 権威は脆く、敬意は硬い
コラムのトピックを探すために毎日、教育に関する記事を探すのが日課です。教員時代はここまで様々なトピックを調べる余裕がなく、今となっては自身の学び不足を痛感します。
トピックを探す中で自分にとって大きな学びになることの1つに、「海外の教育事情」というものがあります。
私も小学生の頃、わずかの期間ながらフランスで暮らしていたことがありますが、最初にその学校の雰囲気やあり方が日本のそれと全く違うことにびっくりしてしまい、泣いて帰宅した朧げな記憶があります。
教育システムは、それを運営する国家(あるいは集団)の様々な特性を考慮に入れつつ意図と目的を設定します。同じ「教育」であっても、意図と目的は国によって様々。
以前のコラムでも書きましたが、教員という職業に対するイメージや社会的地位もまた多様だと言えるでしょう。
私たちにあまり馴染みがない中東の国イランは教育に熱心であり、教員という職業には社会的権威があるそうです。
異文化コミュニケーションアドバイザーの石野シャハラン氏は、イランと日本の教育事情を比較しつつ、日本の教育システムに対して警鐘を鳴らしています。
とイランの現状と共に
と日本の教育に対する提言を行っています。
歴史的に見れば、国家の成長と教育への注力は相互的な関係にあると言えます。現在のイランはGDP成長率も年々上がっています。世界第4位の原油埋蔵量及び世界第2位の天然ガス埋蔵量を有する有数の産油国であると共に、農業や工業も盛んです。
イランは私たちにとっては、核保有国としてのイメージが強く、最近では2019年にアメリカの経済制裁を受けたニュースが新しいですが、国家としての成長を目指し、その政策の1つとして、教育に重点をおいているのかも知れません。
一方で彼のいう、教育に対する「権威」は、逆に言えばその反動にも繋がります。今の日本で問題になっている様々な問題の根底には、権威主義に起因するものも多くあります。
と彼は記事の中で語っていますが、これは私個人としては容認できることではありません。教育は決して「国家」のためにあるのではなく、「個人」のためにあり、だからこそそこに多様性が生まれ、様々な能力を活かすことができる人材が育ち、結果として、その国家を豊かにするのです。
同時に、学校教育というものの「価値」について、日本が再定義することが必要なことはまた事実。様々なツールが発達し、学校に行かずとも学びを進める状況と、その画一的な体制が多くの児童・生徒にとって安心・安全でない場所になっているが故に学校教育の価値が低下していることは悲しいこと。
大切なのはお互いへのリスペクト。教師と児童・生徒がお互いに敬意を持ち、より良い関係性を築くことができる学びの場としての「学校」が必要なのだと思います。
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