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#544 教育の門戸を開くことで、社会基盤とする

 現在私は保護者向けに子育てに関する様々なセミナーを開催させて頂いています。その時、私が必ずする質問に「将来子どもたちにどう生きて欲しいですか?」というものがあります。

 そして表現方法は多岐に渉れど、ほぼ全ての回答は

 「子どもたちが幸せに生きてほしい」というところに行き着きます。

 私たちは誰でも、その寿命を迎える最後の瞬間まで幸せになる為に生きたいと願っています。

 私は人が幸せになるために必要なのは、「学び」であり、その学びを担保するために学校が存在すると考えています。ここでいう学びとは、もちろん教科・科目の学習も含みますが、しかし、それだけでは決して十分とは言えません。私たちが幸せになる為には、自分にとっての幸せを定義しなければならない。既存のシステムが提示する幸せの形に縛られたままでは、その幸せを享受できる人は、一握りになってしまう。幸せには多様な尺度や定義があるからこそ、それを自分自身で見つけていくことが大切となる。より多くの学びは、私たちに多様な「幸せの形」を提示してくれるからこそ、学校教育において大切なのは、「より多くの人が幸せに生きる為の学びを保障すること」だと言えるでしょう。

 一方、現在の学校教育の思想の根源には「競争」という概念があります。私たちは常に様々な部分で比較をされ、他者より優位に立とうとする。その競争社会の中で、いかに生き抜いていくかという思考は、学校における様々な場面で見つけることができます。それは例えば、学校を「偏差値」という基準のみでランクづけし、その結果、学びを限られた人たちにしか門戸を開かないという格差を生み出していくのです。

 『「大学無償化」への批判が的を射ていない真実 お金だけでは得られない豊かさに目を向ける』という記事を見つけました。

 慶應義塾大学経済学部教授の井手英策氏は、「金と運次第の自己責任社会を変える」という理念の元、教育費や医療費、介護費、障害者福祉といった「ベーシックサービス」を、無料で誰もが受けられる社会の実現を提言。その一貫として、大学無償化に対する批判に反論しつつ、安心して学びを進めることができる社会基盤としての教育体系の重要性を指摘しています。

 大学教育の無償化に関しては、大学をタダにしても勉強する気のない子どもたちをいたずらに進学させるだけではないか、大学がタダになっても、結局、お金持ちの子どもだけがいい学校に行くのではないか、という批判が出てきそうです。ですが、これらの批判は的を射ていません。大学に行く/行かないは、各人の選択でかまいませんが、大学教育それ自体は、万人にひらかれるべき権利です。なぜなら、大学教育は、人間の「精神の自律」の前提をなしているからです。(中略)大学教育にとって大事なのは、「考える」「判断する」「選択する」ための知識や専門性を提供する場であるかどうかであって、偏差値が高いかどうか、ではありません。(中略)大学はそれぞれの理念にしたがって、精神的な自律を可能とする教育サービスを提供せねばなりません。国であれ、政府から独立した機関であれ、その目的を達成できるよう、教育の質をコントロールすべきです。それができていない大学は設置を取り消すことだってありえるべきです。ですから、精神的自律をたもつ、という本来の目的が達せられているのならば、そのなかの偏差値の差は、本質的な差とは言えないのです。

 井出氏は、今の社会が定義する競争を勝ち抜いた先にある「幸せ」のみを追いかけることへの危険性を指摘し、私たち自身の「幸せ」を見つけるための大学の価値を提唱しています。

 社会に定義された幸せを求めれば、結果、自分というものをシステムの中にはめ込んで行かないといけなくなる。自分本来の形を変え、まるでパズルのピースのように自分を歪めて型にはめていくその態度は、いずれ自分の中の心の矛盾を生み出すでしょう。より多様でより高度な教育が、より多くの人に門戸を開いてくれるのならば、自分の「学び」によって、自分自身の幸せの形を模索することができるようになるのです。

 

 

 

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