#565 言葉は思想を映す鏡〜やりがい搾取に染まる学校現場〜
私が今暮らしているマンションのベランダからは、母校の小学校が見えます。先日午後10時ごろに洗濯物を回収するときにベランダを出ると、小学校にはまだあかりがついていました。
単純に学校に「いる」だけの長さが、単純に業務の過酷さや忙しさを示すものではありません。しかしそれを加味したとしても、やはりもっと早く仕事を切り上げて自分の時間を過ごして欲しいと思ってしまいます(これは私自身も同じような生活を送ったことがある経験からくるあくまで主観的共感です)。
学校の過酷な労働環境は現場だけではなく、未来の教員にも大きな影響を及ぼしています。教員志望者が年々減少している大きな理由の1つにも、自分が教員として働いた時、プライベートと仕事を両立できないというリアルな不安があるでしょう。
そんな中、学校現場の環境の改善や教員の仕事の魅力発信などにつなげようと、長崎大学教育学部生と教員資格を持つ県職員らが「教職のイメージ」や「教員を目指す上での不安」などについて話す意見交換会を長崎県の教育委員会が企画したそうです。
学生が現場に対する様々な意見が出される中、記事の中のある教員の言葉が私の目にとまりました。
私個人としては、このような感覚が今の学生が一番恐れていることではないのではないかと。おそらく彼の中では決してそのような意図があったのではないと思いますが、これは完全な「やりがい搾取」の典型です。いかなる仕事にもやりがいがあり、大変さがある。それは教員に限ったことではありません。しかし、やりがいがある仕事が「必要以上に」大変である必要はないし、「やりがい」と「大変さ」は決して等価交換ではないのです。
そしてそれは学生もわかっていることなのです。学生はおそらく、今後、現在の学校体制が良い意味で変化するのかが知りたいのではないか。物事がいきなり劇的に改善することはあり得ないし、時間もかかることは当然です。その中でも、県や国が本気で今の労働環境を改善しようとする気概があるかどうか、そこを判断しているのです。
上記の教員の発言は、「結局本気で変えようという気がないんだな」と学生に判断されかねないものであることをどこまで認識しているのでしょうか。