#8 指導は優しさから生まれる
教員は時として生徒を指導しなければなりません。
しかし、昨今は「不適切な指導」というタイトルのニュースを見ることもしばしば。
学校では、教科指導、生徒指導、進路指導など様々な「指導」がありますが、今回のコラムでは、「生徒指導」の際の大事な感覚について書こうと思います。
生徒指導とは何か
皆さんは生徒指導にどのようなイメージをお持ちでしょうか。古くは金八先生からGTO、ごくせんなど、時には人情、時には体罰という手段を用いて「生徒を改心させる」絵が浮かぶかもしれません。
生徒は学校生活の中で様々な困難に直面します。自分の心とは裏腹に、ルールや社会規範を破ったり、相手に身体的、精神的な危害を加えたりしてしまうこともあるでしょう。生徒指導の目的とは、そんな彼らが同じ過ちを繰り返さないように、その原因を探り、一緒に解決策を探していくことです。
指導は優しさから生まれるもの
教員が生徒指導を行う際に、心に留めておかなければならない感覚があります。
それは
指導は優しさから生まれるもの
だということです。
2つの例を見てみましょう。
生徒が教員に暴言を吐いたとします。教員も人間ですから、怒りの感情が湧くのは当然です。しかし、その怒りをエネルギー源として生徒に対応してしまうと、生徒の反発は大きくなるでしょう。それは生徒指導とは言えません。他者を傷つける言葉を発さないようにするにはどうすべきかを考えることが生徒指導なのです。
また、生徒が他の生徒に身体的な危害を加えているとします。事態はかなり深刻です。まず教員がすべきは、被害を受けている生徒の安全を守ることです。同時に、危害を加えている生徒が同じ行為を繰り返さないようにしなければなりません。そうしないと、被害者を増やすことになりますし、最終的には危害を加えている生徒自身の人生を破壊することに繋がるからです。
優しさとは時に厳しいものです。厳しさの根底に、生徒の成長を助けるという優しさが伴うべきでしょう。起こった事象一つで、その生徒の人格を否定してはいけません。
最も残酷なこと
残念ながら、生徒を指導しない教員がいるのも事実です。指導をしない理由としては
指導をすると生徒に嫌われる
指導をすると時間がかかるので面倒臭い
指導しても意味がない
などがあげられます。
生徒指導をしない教員は時として生徒から「優しい」と形容されます。一見、生徒の「自由」を認めていると考えられるからです。
しかし、これは本当に「優しい」のでしょうか。私はそうだとは思いません。これは「優しいふり」なだけです。そしてその「優しいふり」は生徒が社会に出た時に最も残酷な形で出ます。教員が生徒の成長する機会を奪っているのですから。
最後に
指導は、必ず「優しさ」に立ち返ります。教員も人間ですから、生徒から言われたことに傷つくこともあります。また様々な工夫や長い時間も必要です。しかし、教員の仕事が、児童・生徒の成長に寄与することであるならば、それこそが教員の職業的意義なのではないでしょうか。