いのちの使い道
わたしは親に愛されていないと思って生きてきた。
愛されていないと気付いたのは小学生のとき。
それからずっと、なんで生まれてきたのか、なんのために生きているのか、
だれのために生きているのか、生きている意味を考えて生きてきた。
同級生たちはみんな愛されて生きている。なぜわたしだけ違うのだろう。
友達と話していても、壁一枚隔てるとまるで別世界にいるような孤独感。
住む世界が違う。わたしだけ、何か足りない。
家族が欲しい。帰る場所が欲しい。
人って家みたいだ。
友人や趣味という柱で支え、他人とは壁を作り、悲しみの雨から心を守る。
親からの愛情、「存在していい」という証明は、家の基礎。
基礎が脆いと、どれだけ柱を立てても壁を作っても家は崩れてきてしまう。
たくさん柱を増やしてどんどん壁を厚くするしかない。でも崩れてくる。
そうか、心の根っこが脆いんだな、とわかったのは中学生のとき。
たくさん悩んで苦しんで生きてきて、そんなわたしはやさしいと言われる。
やさしい人なわけじゃない。やさしくしかできない。きっと偽善なんだ。
必要とされないと生きる価値がなくなってしまうから、それしかできない。
心が脆いから、存在証明が必要なんだ。
人にやさしくして、傷を癒して、癒えたら要らなくなって捨てられて。
誰かのためにと思って動くけど、さいごは孤独のまま死ぬかもしれない。
でもそれでいい。というか、きっとそれしかできない。
つらくなくなるための答えを探してしまうけど、そんなものはなくて、
なんとなく生きて、楽しいことを拾い集めるしかない。
わかってる、わかってるよ。
わたしと同じような人はたくさんいるんだろうな。
家族や帰る場所がほしくて、生きてていいよって言われたくて。
そんな人たちの力になれるなら、本当にわずかでも力になれるなら、
わたしのいのちに使い道はあるのかもしれない。
悩んで苦しんで生きている人はとてもやさしい人で、
そのやさしさで世界は回ってる。きっとそう。
わたしのざれごとにみんなを助ける力は無いから、せめて祈るよ。
きっと、それも偽善なのだろうけど。
悩んで苦しんで生きている人が落ち着く居場所を見つけられますように。
やさしい人たちがどうかこれ以上苦しまないで生きていけますように。
かみさま、おねがいします。