自死遺族が考える 自殺をしてはいけないか。ー感情と倫理の競合
自死遺族で希死念慮を抱えている[一人称]なりの「自殺論」
希死念慮の強い感情と、死ねない倫理が毎日天秤にかけられ、毎夜決着がつかないまま、アラームをかけて寝る。朝起きてから、また2つを天秤にかける。
「死にたい」という人間に対し「死んではいけない」理由を論理的に説くのはかなり難しいし、逆に、「じゃあ死ねばいいじゃん」と言われると、若干うろたえてしまうことは否めない。
死ぬことについて、善か悪かという二元論で語ることはナンセンスだという立場から、「死にたい」という感情そのものと、いま「生きている」現状に渦巻く倫理について考えたい。[一人称]なりの「自殺論」である。
日本の自殺者は減らず、SNSなどを見ていると、若い人の自殺や自殺未遂が散見される。意見も喚起され、大きく分けて「自殺はやめよう」派と「自殺擁護」派、この2派閥の争いに心揺さぶられる日々。結局どっちが正しいんすかねー?多分、どっちでもよくて、議論が噛み合ってないだけですかね。
まず前提として、「死にたいな」という感情をベースに持っている人は、どんな論理的な「死んではいけない」理由を述べられても、根源的な希死念慮を変えることはできないんじゃないか、と実感として思う。根源的な希死念慮の解決は、精神科医などに任せるとして…。
「周りの人が悲しむからやめなさい」
「じゃあ生きている間にもっと愛せよ」
これは実際のSNSで見つけた一連のやりとりなんですが、後者のほうが、今は共感を集めているらしい。
[一人称]の祖母と父親は自殺してしまったのだが、「生きている間にもっと愛せよ」に対しては相当な攻撃力を感じてしまう。いや、本当に彼らが[…]のような存在を攻撃しようという意図を持って、発言しているとは思わない。流石に。どんな現象にも、当事者と外野はいるのだから。(そして当事者の参与形態も様々であって然るべき)
「生きるという形で娘を愛せよ」と思っていたので、あ、こちら側の愛情不足すか?笑 すみませんでした…という気持ちになりつつ、でも、自身も強烈な希死念慮を抱えている。
つまり、「周りの人が悲しむから自殺はしてはいけない」(自死遺族大賛同)→「じゃあ、生前もっと愛してくれたらよかったじゃん」(自死遺族悲しい)→「てか私も死にたい」→「周りの人が悲しむことを知っていて、自殺を選択するのか?」
前者の発言(周りの人が悲しむ〜)については、相当に共感できますよね。自死遺族なので、どれだけ[一人称]が苦しみ、どれだけ周りの人が自死という現実(友人として家族として恋人として不倫相手として笑)を抱えて生活しているかがわかる。
これはあくまでも[一人称=筆者]の話であって、「自殺」ってもっと多様なんですよ。ここで私がある意見に反対するのは、どちらかが正しい、間違っている、ではなく。「自殺」って全く一括りにはできないから最悪なんですよ。親が死ぬ、子が死ぬ、いじめで死ぬ、借金で死ぬ、失恋で死ぬ、意味もなく死ぬ、さらにその死への関わり方(この世界にまだ残ってしまっている人)は多様化する。
特定の誰か(母親が担任が恋人が...)が、ちゃんと話を聞いて、ちゃんと目を向けてくれていたら、死ななくて済んだのに、と思いながら死んでいく人たちが絶えないでしょう。
ただし、それは死ぬ側の完全な主観であり感情で、死なれた側の感情だって、この世界には存在するワケですよ。なんなら、厳密にこの世界に残されるのはこちら側のみ。
晩御飯を食べていたら警察から電話がかかってきて「父親が自殺しましたよ」と言われる。それからはもう、悲しむ間もなく生活が大変になる。葬儀、金、遺品、墓、、、、、周りの大人に哀れまれ、父親の不倫相手まで押しかけてくる。
お前が死ななかったら、こんな思いはしなくて済んだのに。ばかりの毎日。「こんな思い」をしてしまったばっかりに、私は倫理を背負ってしまったことになる。
「死にたい」という感情と、身に染みて知っている「死んだら悲しむ人がいる」という倫理。実家として、この感覚さえなければ死ねていたんじゃないか?という怠慢でもある、という可能性も捨てられない。しかし、どうして自分の感情すら、論理すら、発生源がイマイチわからず、不安定なままなんだろうか。[一人称]が本当は生きたくて仕方なくて、死ぬことが怖くて、「倫理」と称した「論理」を創り上げていたとしても、それには気付けない。
板挟みになっている。死にたい死ねない死にたい死ねない今まで関わった全ての人を嫌な気持ちにさせるから、死ねない。でも、今まで関わった人全員を悲しませてでも、死にたい日がある。
あとは「いつ」終わらせるかが重要で、最も人に迷惑がかからないとき、みんなから忘れ去られてきたタイミングで、誰も悲しませないように死にたい。と、エンディングにまでエゴイズムを染み込ませている。
たぶん、友達とか知り合いって、自殺しても数年で美談にして忘れてくれるから、別に倫理なんて、私が作った架空の理由だよなー。実際。
それにしても、家族の自死のせいで、どうも自分が死ぬ手段を剥奪されてしまったような感覚が抜けない。
人に自殺してはいけない理由がもしあるのならば、それは自分が一抜けた!をやるがために、他人の自殺の権利を奪うから、なのかもしれない。そんなこと、死ぬ側が考えるべきことでもないですよね。
残されたものとして、背負い続ける自殺というカルマ。長い付き合いになりそうだが、今日もユートピアのような死を思い描いて、安定剤を飲んでから眠りにつく。健康に、目覚め、余裕がある時に死ぬことについて考える。まさに無駄な時間である。
いつかただ純粋に生を甘受できる日を、夢想しましょう。では。