嘘散歩 1


今日、なんとなく暇で、家に帰るまでに時間があったから、出先からできるだけ、家の近くまで歩いてみることにした。

都会の汚い川と、最近おしゃれに作り変えられた橋を越えて、何本も何本も側を超えて、東にゆく。

いくつか川を越えたら、次は線路。高架下を抜けて、また違う路線を沿うように東にゆく。

踏切を渡って、その線路も越えたとき、斜め前の公園で猫が2匹寝ているのを見つけた。

秋の涼しい風と、まだ夏を感じる温かい日を受けて丸まっている猫。

起こさないように少しだけ近づいてみる。
なんの変哲もない猫でした。(白と明るい茶色と、黒猫)

公園を左に曲がって、住宅街に入る。
すると、今度は子供がキャッチボールをしていた。

兄弟だろうか。微笑ましい雰囲気。
兄は小学校高学年か、中学1年生くらいと見えて、弟は小学校低学年だろうか。

グローブにボールがはまる音が、一定の間隔で聞こえる。人の生活が発する音だな、と思う。

2匹の猫は音もなく寝ていたけど、紛れもなく存在していて、この兄弟は見えなくなっても音だけで存在がわかる。
でも、きっとまだ見えなくなった猫も、寝ているだろう。

散歩をするということはつまり、生活を通るということ。ひとつの家にはひとつの生活がある。

はみ出た人間が、外で生活を体現している。

マンションにはたくさんの生活が詰まっている。それは会社に、学校に、病院に、街中に広がっていく。

彼らは、彼らの居場所で人と今日も会話をし、またそこに戻ってくる。そのために存在する家、街。

猫が帰ってくる公園。

東へ、東へ通り過ぎる。生活を経由する。
人々は人々の生活をやっている。それを、見る。

猫は、猫として今日も生きている。全ての猫が、猫として、食べたり寝たりしている。

人間は、人間として生きていく。街に社会に、国家に、否応なく飲み込まれて、気がついたら生きている。

散歩をする。散歩をすれば、通過する。
猫を、兄弟を通り過ぎて過去のものにした。でも、彼らは今も生活をしているだろう。

木々を、建物を、通り過ぎた。
彼らは動かない。ただ、その場所に過去も未来も、在る。

世界は私の視界から開けた部分かもしれない。でも、今、全く近くできないあの街で、あの猫も兄弟も、すれ違った人々も、あの街の家に住んでいる人も、各々の生活をやっているだろう。

彼らの友人も、遠くに住む家族も、生活をやっている。

私からは見えないところで。
公園の木々もまだそこに在る。ベンチも在る。

世界から私が不意に消えても、それらは残り続けるが、私の中からは全て失われる。

生きるとは、散歩をするとは、全てを通り過ぎていくことなんだろうな、と思いました。

そんなこんなで色々考えながら、自分の家の近くまできたところで、イタチに遭遇。細長い。(都会って感じだ)

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