夏の終わりはなぜ寂しくなるのか?
気が付けば9月も下旬に差し掛かっている。
街を歩けば長袖の人の姿もまばらに、ふっと息を吹きかけるような涼しい風が、時折頬を伝っては消えていく。そうして、彼方に流れていった秋めいた風が、夏の終わりを現実のものとして私たちに予感させるのだ。
ここで、私たちの多くは一抹の寂しさに囚われる。
その心情を因数分解すると、夏が終わることに対する寂しさであることに気付かされる。
ふと思うが、巷においては、春の終わりや秋の終わり、冬の終わりを名残惜しむような声はあまり聞かれない。むしろ、冬の終わりに至っては歓迎されるほどである。
それでは、なぜ夏の終わりだけが寂寥の対象になり得るのか。
インターネットで検索してみても、「暑くて開放的な季節が終わるのは寂しいから」とか、「夏は何事も盛りの時期で、それが終わるから」といった、答えになっているような、いないような、なんとなく漠とした回答にしか巡り会えない。
そこで、私なりに考えた答えを、この拙文にまとめようと思った次第である。
それでは、まず結論から。
なぜ、夏の終わりは寂しく感じるのか?
それは、「終焉への収斂」を意味するからである。
つまり、それはどういうことか。
もっと平易な言葉で言い換えると、夏の終わりとは、「終わりの始まり」である。
何を当たり前なことをと思うかもしれないが、夏の終わりは、ある種のライフサイクルの大転換点である。
それは自然界を見ても自明であろう。
命が芽吹く春、深緑の植物が繁茂する夏。その夏が終わると、やがて生命の力は衰え、枯葉舞う秋へと移ろっていく。そして多くの植物が息絶える厳冬へ。
生命としてのサミット(頂点)を迎えるのが夏であるとするならば、秋に移行するにつれて、その地点は徐々にゼロへと向かっていくのである。自然界に生きる私たち人間にとっても、その絶頂の季節が終わるというのは、なるほどなんとも耐え難いはずである。
一方で、この事象は、とりわけ日本人の心象として強調される可能性があることも付け加えておきたい。
義務教育で3学期制を採る日本において、7月から8月の真夏は、長期休暇の夏休みにあたるケースがほとんどである。我々の夏の終わりに対する心象は、この夏休みが多大に影響していることからも読み取れる。
虫取り網片手に追いかける、青空にまたがる巨大な入道雲。暗闇のなか、つんと鼻をつく蚊取線香のほのかな匂いに身を寄せながら、線香花火の閃光に照らされたあの人の無邪気な顔。タンクトップ一枚でかぶりつく真っ赤なスイカ。冷房の効いた部屋で画面越しに観る、高校球児たちのほとばしるまでに熱い闘い。お互い汗ばんだ手を、不器用に相手の手へ添えながら見上げる打ち上げ花火。
夏休みにしか出会えない、こういった非日常的な瞬間の蓄積は、夏の終わりの涼しい秋風とともに、二度と返らぬ残像となって過去へと去っていく。
その夏に対する想念が、年間のなかでサミットとなる場合、サミットからゼロ地点へと収斂していくもの悲しさは言うまでもない。
このように、日本人誰もが幼い頃に経験する心象が、夏の終わりの虚しさをより一層強めていることは間違いなさそうである。
灼熱の気温に合わせて急転的に花開き、躍動し、短命なまでの速度で散っていく夏は、まさに一夜限りの祭りである。その「祭りのあと」には、はるか遠くでかすかに聞こえる祭囃子の残響が、寂寥の念をかき立てる。
このように、終焉へと収斂していく時が夏の終わりであり、だからこそそれを予感した私たちは、得も言えぬもの悲しさに包まれるのではないだろうか。
あなたはこの夏、何か思い出を残しましたか?
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