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大学で得られる学問の面白さ
学校とは、知識を得るための場所、ではなくないですか?
こんちには、一般女性Aです。
今日は学校、特に大学についてちょっと考えたことを書きます。
私は現在、経営学部に所属し、経営心理と哲学を専攻しています。
他人に「何大学でやってるの?」と聞かれた時に、今までは経営を学んでいます、と解答していましたが、
最近はきちんと大学での専攻科目を話すようにしています。
なぜなら以前、経営学部に所属している、と話した時、経営学なんて本読めば学べるのにわざわざ大学行って学んでるんだねw、と言われたからです。
これを言われて、めっちゃ衝撃を受けました。
ここで受けた衝撃(疑問)は2つ、
・他人に対してそんな失礼なこという人がいるんだという衝撃
・大学に行く意味は知識を得ることだけしかないのだろうか疑問
今日は後者の大学に行く理由について考えます。
大学、というか学校で得られる知識は本読めばある程度は理解出来るでしょう(超頭の良い人が超真面目に本を読んだなら)
なぜならみんな参考書や本を元に授業をしているからです。
その元にしている本を読めば大抵分かります。
でも、なぜ学校で授業を受けるのか。
小中高校では、学校生活を通して社会性を身につけるとか、そういう理由があるかもしれません。
じゃあ大学は?なぜ通うのでしょう。
私は大学で教授から学問を学ぶことこそ、本当の学びであると思っています。
大学に在籍して驚いたことは、学問に正解がなかった事です。
同じ授業、同じ学問でも、教授によって解釈が全然違います。
とある教授は○○世紀の発見を参考に今の経営について議論している一方で、また別の教授は△△世紀の理論に基づいて議論しています。
同じ、経営について学ぶ、という観点だけでも、扱う理論や時代背景が異なり、それぞれ解釈も異なります。
同じ授業名でも、教授が違えば全然違う講義になるのです。
人によって解釈が違って正解と呼ばれるような考え方は存在しない、という点が、学問の本質であるような気がしています。
その人によって違う解釈をしている物事に対して自分はどのように考えるか、様々な視点を学んだ上で見る世界はどのように変わって見えるのか、などを追求するのが学問を研究する意義だと思います。
そして、その学問に対する解釈を沢山一度に学べるのが「大学」と呼ばれる場所なのです。
本を読んで得られる知識というのは、その著者の解釈によって表現されているものであって、
学門的にその分野を学ぶ為には、視点が少なすぎるような気がします。
小中高までは、同じ知識を同じように解釈するよう決められて学んできました。
でも大学はそうでは無い。
大学では教授によって解釈が変わり、その解釈の差異から、では自分はどのように考えるか、ということを追求していきます。
だからレポートを書いたり、色々な本を読んだりするのです。
大学で学ぶ学問に対して、「そんなの本読めば学べる」というのは超失礼だなと改めて感じました。
研究者が沢山いる理由も大学が沢山ある理由も、学問には沢山の解釈法があって、それの完全な答えというのは存在しないからだろうな、とも思いました。
それを踏まえて、私は学問というものが非常に好きで、追求して考えることが面白いと感じることを知りました。
知的好奇心とは素晴らしいものです。
これからも様々な学問の扉を叩きたいです。
そして色々な人と知的好奇心の素晴らしさや、学問の面白さに気づいて、一緒に学問を楽しみたいなぁと思います。
思ったことがありすぎると、あれもこれも書きたいとなって、文章が鬼下手になります。
推敲すれば良いのに、全くしないから全然上達しないのかも知れませんね。
( ; ; )
以上です。
一般女性A