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他の人が高速道路を走る中、隣をゆっくり歩きます

私はとっっってもゆっくり道を歩いています。

こんにちは、一般女性Aです。

私は物事を軽く理解するのはめっちゃ早いです。

割と早く要領を掴むことができます。
だから数学とか体育とか、そういう科目の初速はめっちゃ早くて、
数学だったら例題みたらすぐ解けるし、体育だったらお手本の実演をみたらほぼ基礎の動きは出来るようになります。

すごーーい👏

でも、ここからちょっと問題で、

こだわりを持ち始めたり、疑問があると、解消されない限り前に進めないんですよ。

例えば、数学だったら「なんでそもそもXという文字で置くのか」という疑問を持ったら、その疑問を解決しない限り、Xという文字で置換したくなくなるんですよね。
なぜならば、Xという文字で置換する有用性が全く分からないから。
だから、なぜXで置くのか、という疑問が解決されるまでずっと□で置換してノートに書いていました。

勉強だったら、大抵調べれば絶対的な答えが出るので、そこまで周りと差をつけず、同じペースで進めたのですが、

社会とか人生そのものになると話は別で、

調べてもそれらしい答えしか出てこないから、納得できなくて前に進めず、ずっと同じことを考えるようになってしまいます。

それが大きく足を引っ張ったのは受験でした。

受験はなぜするのか、なぜ自分が学びたいものがないのに頭の良い大学を目指さなくてはいけないのか、「大は小を兼ねるから、あなたの学びたいことは某大学の入学資料に書いてなくても学べる」という言葉は本当に正しいのか。

これらの疑問が一生解決されないまま、受験日まで刻々と過ぎていきました。

私はこれらの疑問をずっと考え続けながら勉強をしていたので、

勉強してもしても全く成績が伸びず、

あんまりいい大学(学歴を見た時に指す良い大学)には受かりませんでした。
(でも私の大学は教授が素晴らしく、講義はとても楽しいのでかなり幸せですよ)

タイムリミットがあって、かつ答えが明確に出ないものが関与してくると、途端に止まり、制限時間内に他人のみなさんに追いつくことが出来なくなる、

という特性を自分は持っているんだ、ということを初めて実感した経験でした。

それから、この特性をどうにか社会のスピードと合わせられるようにすることはできないものかと、考え、実践し続けていますが、

最近、それはかなり難しく、時間を要することであると、納得してしまいました。

それと同時に、この特性を活かして生きることは可能なのではないかとも、考え出しました。

たとえばこう考えると、なにか見えてきます。

他人のみなさんは高速道路を走行している時に、私は徒歩で道を歩いている。

高速道路走行勢は、建っているマンションの名前なんて読めないし、隣を走っているバイクが何ナンバーかも見えません。でもその代わり、早く目的地に着くことが出来ます。
一方徒歩勢は、目的地に着くのに非常に長い時間を要しますが、建っているマンションの名前は疎か、道端に咲いているたんぽぽだって見えますし、走っているバイクの表情でさえ見ることができます。

私は上記でいう徒歩勢だからこそ、高速道路走行勢の他人の皆さんより、世界の解像度がめちゃめちゃ高いんだなと自分を解釈すると

そんな特性を持つ自分も悪くないな、と思えてきます。

だって、そこに住む人たちにはマンションの名前ってとても重要だし、
たんぽぽが咲いているのを見ることで、春を実感できるでしょ?

解像度が高いことそのものは、それによって交流する人が変わるし、世界の見方も変わるし、全く悪いことじゃないですよね。

ただ、悪いのは1つ、高速道路と徒歩のスピード差、だけです。

差がありすぎることだけなのです。

「だけ」といっても、その差ってめちゃめちゃ大きいんですが。
(現に受験は成功してないし)

ただ、スピードにしか差がない、と捉えることで、自分の全部が悪い訳では無いんだなと過小評価することがなくなりました。

それと、高速道路と徒歩だったら、そもそも持ち物が違うから、高速道路に入り込むことはできないな、と諦めがつきました。

だって車もなしに高速道路に入ったら飛ばされて大怪我しちゃうでしょ?
避けるのも難しいじゃないですか。

社会も一緒で、私は世間のスピードに入り込んだら大怪我しすぎてしまうのかもしれません。

でも、その代わり、他人の皆さんよりも高い解像度で物事を見れます。

一長一短ですね。

 自分を分析することで、初めて得られた感覚でした。

今日でまた少し、自分のことが好きになれた気がします。

一般女性A

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