傍から見れば無様な主観 〜湊かなえ「告白」感想〜
・「告白」の感想です。小説を読んだ後映画も見たのでその感想も含まれます。ネタバレありです。
原作小説の感想
・はじめに
感想を書くにあたって理解を深めるためにもう一度パラ読みでもいいから印象に残っている部分を読み返すべきなのだろうけど…したくない!
読んで沈んだ気分になってしまい「続き読みたくないな…」と思いながら読んでいたくらいなので、読み返すのは今は無理だ。だからセリフ等は原文ママでないこと、解釈浅めなことをご了承ください。
・浮き出る無様さ
何も知らない人間は無様だ、と思わせる描写があった。
自分もそれに悩んでいた時期があり、昔はそんな何も知らない人間になりたくなかった。
それでもここ数年は、「たとえ自分が無様でも他人から面白く見えていればそれでいい」と自分を許容できるようになっていた。
だが、この小説はウェルテルや直樹の母親といった登場人物の描写から何も知らない人間の無様さが浮き出ていて「やっぱり嫌だ!」と思ってしまった。
それくらい、何も知らずに突っ走ってしまう人が愚かに見えてしまうのだ。
・毎章明かされる新事実
各章の終盤、前の章で描かれたことについて他人目線で新事実を提示することで起こるどんでん返しの形式が面白かった。
娘を殺された先生の心境を一冊かけて追っていくのかと思いきや、人物それぞれの心境を読まされる。そこで明かされる新事実につい共感や感情移入をしてしまう。が…。
・視点変更で起きること・感じること
この小説は章ごとに語り手が変わり、当然語る内容も変わる。
一視点だけだと愚かな若者にしか見えない人物でも、その人の視点に立つとそこに至るまでの何か理由があったということが分かる。
しかしその理由ですら、また別の人の視点からは取るに足らない愚かな行為に見える。
同年代より多少達観している(ように見える)修哉は直樹や美月を見下し彼ら視点の話を馬鹿にするものの、その修哉も最終章で森口先生に「馬鹿ですか」と言われてしまうように。
それを繰り返していく、誰を支持するかをコロコロ変えさせられる構造に感嘆した。
読者は語り手に共感してしまうもの。その一度覚えた共感を他の視点からぶち壊されていく感覚は、ファイアーエムブレム風花雪月を思い出す。
一つの視点だけ見るのではなく、他の視点に立つことの大切さを改めて思い知らされた。
また、ここから感じた感情に、自分も無様なのではないかという恐怖がある。
自分でどれだけ考えた末の答えでも結局は主観に過ぎず、他者──特に年上の人から見ると無様なのかもしれない。
今こうして自分が必死に言語化している感想も他者から見たら無様に見える可能性への恐怖を抱いてしまった。
・一番心に刺さった章
自分は第3章が物凄く心に刺さってボロ泣き(感動ではない)をしてしまった。
引きこもった息子に、偏っているが愛情を注ぐ母。母も真相を知らず的外れなのは分かるし、息子をちゃんと見ていない部分もあって滑稽に映るのだが、昔の不登校だった自分と両親を重ねてしまい悲しくて悲しくて。親にこんなこと思わせてしまっていたのかもと想像すると申し訳なくもなって。
あの時自分にも与えられていた愛情のことを思っての涙でもあるのかもしれない。
まあとにかく信じられないボロ泣きです。涙が止まらず嗚咽を漏らすほどのボロ泣きは本当にいつ以来だろうか。3、4年振りの大号泣な気がする。
この母親がどうなるのかは前章で分かっているので、「運が悪かっただけで、これからはいいことばかり起きるはず」と信じる母親を見るのも辛かった。
息子が原因で起こったことの責任を転嫁しているからこれもやはり的外れな盲信なことは分かっているけど、それでも悲しい。
まあそのボロ泣きを嘲笑するかのような他視点の移り変わりにその後気まずくなるんすけどね…。
実写映画の感想
・設定について
原作至上主義というのはもはや自分の悪癖と言っていいもので、原作ありの実写映画の設定やストーリーの改変はかなり気になってしまう。
しかしこの映画は根本部分の改変がなく、かなり原作に忠実な設定とストーリーだったと思う。
気になったのは複数の告白が同時進行になり時系列が少し乱れていることと、修哉の母親についてくらいだった。
原作では暴力の後抱きしめたり別れの前日に外出したり、助けを求めたら迎えに行くと告げたりといった描写があった。だから修哉が母親への慕情が強くなるのも分かるが、映画の描かれ方だとただの暴力親を慕っているように見えてしまう。
複数の告白が同時進行なことについては、映画ならではの魅せ方(後述)があるから良さでもある。
・小説の方が優れているポイント
自分が原作で凄いなと思った「各章の終盤、他人目線で新事実を提示することで起こるどんでん返しの形式」が映画では薄くなっていた印象。
本人目線で描かれたり直接的な言葉で語られたりしまっていた。
どんでん返しを重ねる原作の良さを求めていたら、若干の不満が残るものになったかもしれない。
・映画の方が優れているポイント
修哉と直樹の対照性の強調。2人の犯人とそれぞれにまつわる人物の告白が同時進行になったことで映画版はそれが際立っていたと思う。
自分の血をばら撒くシーンにおいては、教室を支配するために計画的に行っていた修哉と、コンビニで完全に自棄になっていた直樹の対比は同時進行ならではのもの。
「母親殺しでメディアに取り上げられた直樹を見て羨ましがる修哉」という映画オリジナルのシーンがあることで、犯行においても対照的なことがわかる。
殺すつもりで、殺せなくて、取り上げられたいのに、取り上げられない修哉。
殺すつもりはなかったが、殺してしまい、別に取り上げられたくもなかったのに、取り上げられてしまう直樹。
この2人が対照的であることは映画で改めて気付かされた点だった。
・印象に残ったシーン
二つある。
一つは、直樹への寄せ書き。頭文字で「人殺し死ね」になる文章をクラスメイトたちが嬉々として読み上げているシーン。学校に流れる異様な空気感を感じられた。
もう一つは、クライマックスの修哉が母親を爆殺してしまったことを知るシーン。
彼の発明品である逆さ時計の要素を取り入れた、吹き飛ぶ様子と修哉の慟哭。
修哉がしてしまったことがどれだけのことなのか、映画だから魅せられるシーンだと感じた。
第3章の部分は、小説の時ほど心を揺さぶられることはなかった。
おそらく、文字で訴える小説と映像で訴える映画の違いだろう。
日記帳でひたすら、その日の出来事として語られる母の思いという文字形式だから自分は心に刺さってしまったのだ。
文字での表現とその読み上げなんて映画ですることじゃないから、心揺さぶられなかった演出の方が映画として正解なのだと思う。
映画は映画で、小説は小説で、違う方向から攻めていけばいい。
おわりに
この作品を読んで自分が一番感じたことは、タイトルにもあるように登場人物の無様さだった。滑稽さと言ってもいいのだろうが、自分はそれらを笑えなかった。
真実を知らない人、主観だけで語る人、彼らの行動がとても愚かでバカバカしいものに見えるが、自分もそうなのではないかという不安を感じた。
無様にならないよう俯瞰、達観したいと思うものの、そうしていたつもりの修哉もバッサリ切り捨てられるわけで…。
なんだか、生き方を問い直された気分。
子どもを殺された復讐が結果的に親殺しをさせることになるというのは辛いが納得できてしまう帰結。
「イヤミス」と言われるだけあって本当に嫌な気持ちになる読み味だったが、とても面白かった。
森口先生がMCバトルの後攻みたいだという話もしたかったが、上手くまとめることができなかったので没。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
おわり