あるヤクザのいま
私の通うデイケアには、元ヤクザの男がいます。
極道として反社会を生き、刑務所を務め、精神科の閉鎖病棟に収容された男です。
彼は実の父親を知りません。
物心がついたときには父親はすでに去り、母親と祖母に育てられたと聞きました。
不幸な生い立ちの子供の誰もがそうであるように、彼を暖かく迎え入れたのは同じ境遇の仲間であり、悪いことに彼が行き着いた先は反社会勢力。
極道、といえば聴こえは良くても若い下っ端のヤクザなど社会的地位はたかが知れています。
彼もまた長い懲役を宿命とするヤクザの一員であったことは想像に余りあることです。
やがて彼は薬物の使用・販売によって札幌市内の悪評が目立つ精神病院に収容され、その病院を脱走しようとした結果、札幌からさらに離れたこの街の更に評判が悪い最悪の病院にぶち込まれたのです。
若かった当時の彼は懲役すらむしろ名誉と思ったかも知れません。
組長の命令一下、鉄砲玉になることすら厭(いと)わなかったかも知れません。
しかし、彼にとって最悪だったのは、懲役よりもはるかにタチの悪い精神科への入院措置に服従せねばならないことでした。
懲役ならば刑期満了がありますが、精神科の入院は退院のメドが無く、まして、昭和の精神病院で患者をひとり退院させることは、すなわち病院が患者一人分の赤字を出すことを意味しました。
病院側が故意に患者の退院を拒むことが当たり前にあったのです。
そのために彼は、20年の長きにわたって閉鎖病棟に収監されることになります。
病院から解放されたとき、彼はなんと40歳。
しかし、彼はその苦難の人生を投げ出すことをしませんでした。
失った歳月を取り戻すかのように、彼はパソコンや携帯電話、そしてスマートフォンに興味を示すばかりか、それを独学でマスターしてのけたのです。
彼は入院時代以来の仲間たちとの交流を忘れず、孤独な暮らしを充実したものに変えました。
たしかにヤクザ出身者にとって、シャバの暮らしは辛抱の連続です。
極道だった時とは違い、カタギを生きるならば暴力や賭博、過度の飲酒や反社会的勢力との交流を断ち切らねばなりません。
彼はヤクザ組織に戻らず、わずかな生活保護費を反社への上納金という搾取(さくしゅ)の泡に帰さない道を選びました。
シャバの暮らしは辛抱の極みでも、空に四角い窓は無く、そこには鉄格子も無く、天突き体操に声を枯らすことも無い。
正確に言えば彼はいまでもヤクザです。
彼に対して組織から破門状は出ていても絶縁状は出ていないからです。
ですが、昭和の時代に華やかだったヤクザ稼業が廃れて久しい昨今、ワルで鳴らした彼もいまではとうに50歳を過ぎたどこにでもいる優しいオッサンになりました。
彼は人生の苦難を「耐え忍ぶ」ことによって全うしたのです。
いまでも彼は極道だった過去を忘れていませんし、私はカタギの分をわきまえなければならない。
つまり、仲間であっても友人にはなれない。
しかし、彼の過去を知る由もない この街の住民は彼を温かく迎え入れています。
長い辛抱と引き換えに信用を手に入れた彼に対して、いまはもう亡くなった彼の母親や祖母がもしも生きているならば、 彼を抱きしめて きっとこう言うことでしょう。
「よく耐えた。それでこそ私の息子だ」と。
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