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マリのこと(少女論1)

公園でたいそう美しい紫陽花を見つけた少女は、花壇からそのひと茎を摘みとりました。と、それが御守りの目につき、罰としてマロニエの大木の日傘の陰に座っているよういわれます。少女は、きらびやかな天蓋のもとで身の周りを眺めるのに飽きてくると、この青くて美しい塊を大きく開いた唇に近づけて食べようとします。「この花はお砂糖でできているのかもしれない」そう、思ったから。


アナトール・フランスの『マリ』は、1886年にパリのアシェットという本屋から出版された『我々の子供たち(Nos Enfants)』のなかの一編で、ほんの3ページ足らずの短い物語なのだけれど、じつに長閑で気持ちよさそうな雰囲気なのがいい。
少女が花と同じほどにのびのびしているところとか、そこに咲いていることを心から楽しんでいる感じとか。体の芯から嬉しそうなのが伝わってくる。
 
矢川澄子がおもしろいことを書いていた。
少女が少女そのものとして作品に結晶するためには、「少女自身がよほどの早熟な文才に恵まれている」もしくは「少女期の体験の方が成人後の感銘をはるかに凌駕している」必要がある、と。

ついでにいえば、彼女の少女論のなかには「精神の貴族」という表現が登場する。精神の貴族! なんて素晴らしい表現。この言葉は、マリのような少女にこそふさわしいと思う。

人妻でも母親でもなくて、悪女でも恋人にもなりえない小さなレディ。マリは社会的にも性的にも無垢で、非妥協的で、むきだしの女性そのものみたいな魂の持ち主だから。

Eileen Alice Soper, ”Skipping” . 1921, The Art Institute of Chicago

私はマリの年齢も、着ているお洋服も、柔らかくて細い髪の毛も(リボンで束ねているかもしれないし、編みこんでいるのかもしれないと想像しながら)ほんとうには知らないのだけれど、それはまあどうでもいいことで、そんなことは、マリの可愛らしさを作るほんの一部でしかない。

それよりも、鼻の先に近づけた花に「息を吸いこんでみる代わりに」息を吹きかけてみたり、手に持った花を唇に近づけて「できるだけ大きく口を開き」食べてしまおうとするさまにこそ「少女らしさ」があると思うのだ。

それは「女の子」という言葉のもつ素っ気なさや「幼女」という呼びかたの湿っぽさとはまるでちがう性質のものだ。

「少女」は風をきって走り、靴裏は芝をすりつぶした青い匂いがする。それから肌は、たぶん天国のいい匂いがすると思う。私は膝をついて、そっと下から花を差しだす。高貴で恭しくて、でも一緒に歌ったりもできてしまう。 

「少女」は、無邪気で純真な遊び心をもっていなくてはいけない。生身のアリスなんて、不思議でもなんでもないから。

(つづく)  
     


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