マリのこと(少女論1)
アナトール・フランスの『マリ』は、1886年にパリのアシェットという本屋から出版された『我々の子供たち(Nos Enfants)』のなかの一編で、ほんの3ページ足らずの短い物語なのだけれど、じつに長閑で気持ちよさそうな雰囲気なのがいい。
少女が花と同じほどにのびのびしているところとか、そこに咲いていることを心から楽しんでいる感じとか。体の芯から嬉しそうなのが伝わってくる。
矢川澄子がおもしろいことを書いていた。
少女が少女そのものとして作品に結晶するためには、「少女自身がよほどの早熟な文才に恵まれている」もしくは「少女期の体験の方が成人後の感銘をはるかに凌駕している」必要がある、と。
ついでにいえば、彼女の少女論のなかには「精神の貴族」という表現が登場する。精神の貴族! なんて素晴らしい表現。この言葉は、マリのような少女にこそふさわしいと思う。
人妻でも母親でもなくて、悪女でも恋人にもなりえない小さなレディ。マリは社会的にも性的にも無垢で、非妥協的で、むきだしの女性そのものみたいな魂の持ち主だから。
私はマリの年齢も、着ているお洋服も、柔らかくて細い髪の毛も(リボンで束ねているかもしれないし、編みこんでいるのかもしれないと想像しながら)ほんとうには知らないのだけれど、それはまあどうでもいいことで、そんなことは、マリの可愛らしさを作るほんの一部でしかない。
それよりも、鼻の先に近づけた花に「息を吸いこんでみる代わりに」息を吹きかけてみたり、手に持った花を唇に近づけて「できるだけ大きく口を開き」食べてしまおうとするさまにこそ「少女らしさ」があると思うのだ。
それは「女の子」という言葉のもつ素っ気なさや「幼女」という呼びかたの湿っぽさとはまるでちがう性質のものだ。
「少女」は風をきって走り、靴裏は芝をすりつぶした青い匂いがする。それから肌は、たぶん天国のいい匂いがすると思う。私は膝をついて、そっと下から花を差しだす。高貴で恭しくて、でも一緒に歌ったりもできてしまう。
「少女」は、無邪気で純真な遊び心をもっていなくてはいけない。生身のアリスなんて、不思議でもなんでもないから。
(つづく)
【関連記事】