毒親の「なんとかなる」を尻ぬぐいしてきた人生
「母子家庭でお金はなかったけど、なんとかなった」
「車の免許がなくても、なんとか子育てできた」
「2DKの狭い家だったけど、なんとか生活できた」
母が武勇伝のように語る「なんとかなったシリーズ」。
実際はわたしと姉が「なんとかした」もしくは「我慢した」のだけれど、わたしたちの苦労を母が理解することは、一生ないでしょう。
伝えたところで「わかろうともしない」という方が正しいのかもしれません。
金銭的なセンスがない母
もともと母は、お金を稼ぐ才能も使うセンスも皆無だ。
経験した仕事といえばクリーニング店の受付と、スーパーや八百屋のレジ係のみで、決して自立できるほどの収入を得ることはできません。
さらに、お金の使い方も「上手ではない」というのが痛いところ。
お酒にたばこ、お菓子代は「必要経費」。
子どもには洋服を買ってくれるものの「コスパは度外視」。
なぜかイトーヨーカドーの安売りの服を、毎週のように買っていました。
極めつけは、姉のクラリネット代です。
中学校で吹奏楽部に入部した姉。当然学校にも楽器は十分にあります。
しかし、見栄っ張りでミーハーな姉の「クラリネットが欲しい」の声に、同じくミーハーで見栄っ張りな母はOKを出したのです。
当時小学生のわたしには、50万円という金額はピンとこなかったものの「高くてヤバい買い物をした」と感じたのをはっきりと覚えています。
貧しさはプライバシーをも奪う
両親が離婚したのは、クラリネットを購入してから1年後のこと。
わたしたちが住むことになったのは、○○荘という名の昭和の時代に建てられたアパートです。
間取りは2DKでボットン便所。
10畳程度の居間に小さなキッチン、6畳程度の和室が2つの、ファミリー層には向いていない物件でした。
脱衣所なんてものはない。
玄関扉には曇りガラスが貼られていて、独特の雰囲気を醸しだしていました。(この曇りガラスのおかげで命拾いした話は、また別の投稿で)
いまのわたしがタイムスリップできたら、確実に母を問い詰めるだろう。
「クラリネット買わなかったら、もう少しマシなところに住めたんじゃない?」(大家さんに失礼)
姉は、6畳の和室を与えられました。夢の1人部屋です。
離婚前の共用の子ども部屋から考えると、グレードアップともいえる状況。
一方わたしは、6畳の和室を母と使うことになりました。
学習机と箪笥、ベッドを置くだけで、足の踏み場がありません。
しかもベッドは2段ベッドを分解したもので、柵付きの狭いスペースに、母と2人で寝るという拷問。
これが、本当につらかった。
自分が親になってから改めて「母親が中学生の娘と、シングルサイズのベッドで一緒に寝る」という異常さに、怒りのような感情を覚えます。
狭かった。不快だった。嫌悪感すらあった。
母と体を密着させる体験はトラウマでもあり、わたしが「孤独好き」になる大きな要因だったように思います。
行動範囲の狭さは選択肢を限定する
母は車の免許を持っていません。
「昔とろうとしたけど、家族に反対された」
「免許をとるお金も、車を買うお金もないから」
「もう40代だし、いまからとっても遅い」
わたしが生まれ育った地域は、一人一台車を所有するのが当たり前の地域です。
公共交通機関は、市営バスのみ。(しかも冬場は雪で大幅に遅れる)
進学先や習い事、休日の過ごし方、母自身の仕事など、生活のすべてが制限される状態でした。
「免許はクラリネット代でおつりがくるでしょ」(しつこい)
いまなら当時の母にいろいろ抗議できるものの、中学生のわたしはそんな生活が「当たり前」と思っていました。
食品をまとめ買いするときには、祖父母に車を出してもらう。
悪天候のときには、友達のお母さんの車に乗せてもらう。
誰かにサポートしてもらう生活は、ありがたくもあり、居心地の悪いものでもありました。
老いた母の尻ぬぐい
現在母は60代になり、見た目も実態も「おばあちゃん」に仕上がっています。
我が家から徒歩3分のアパートで、一人暮らしの状態です。
母は3年ほど前に、地元から移住してきました。
「孫のそばで暮らしたい」という母の気持ちと「ワンオペ育児限界!」「家事をしたくない!」「母のごちゃごちゃに巻き込まれたくない!!」というわたしの利害関係が一致した結果です。
一言で表すと「ダメ男から逃げてきた」という方が、正しいのだけれど。(これはまた別の投稿で)
一念発起して、生まれてはじめて地元を出た母。
「これまでなんとか生きてこれたし」という謎の自信とは裏腹に、特別なスキルや経験もないため、自立するほどの収入を確保するのは不可能です。
そこで、現在は我が家の扶養に入りつつ、薬局でパートをし、我が家の家事代行スタッフとして、日々雑用にいそしんでいます。
わたしたち夫婦が毎月6万円以上負担(家賃・光熱費その他)しているため、その分家事労働をしてもらわないと、わりに合わないのです。
愛着よりも利害関係
幼少期から現在まで、わたしは母の「なんとかなる」を「我慢」という形で尻ぬぐいし続けてきました。
結果「なんとかなった」と思い込んでいるのは母だけなのですが。
母が移住してきてからは、親子関係が利害関係ベースになりました。(少なくともわたしはそう思っている)
母に求めるものが「愛情」から「お金に見合う労働」に変化したのが大きいのでしょう。
母との会話といえば子どもたちのことが大半で、雑談はほとんどしません。
同じ食卓を囲むこともないし、寝起きを共にするなんてもってのほか。
ただ、孫たちと触れ合っている幸せそうな母をみると「お母さんが喜んでる」とうれしくなる気持ちがあるのも事実で。
母親と子どもの関係は、良くも悪くも割り切れないな~~~と感じている今日この頃です。