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幸福論の古典から知るお金と幸福の関係

「幸福とは何か」

この問いは、古代から現代に至るまで多くの哲学者、心理学者、経済学者が探求してきた普遍的テーマである。

だが、幸福の本質を明確に定義できる者は少なく、私自身も長い間その答えに悩んできた。

本稿は、帰納法に基づき、実際の人生経験や多くの人々に共有される普遍的な感覚を出発点とし、幸福論の古典を丹念に読解することで、幸福の本質を探求するアプローチを採用する。

ここでの帰納法とは、原理から論理的に結論を導く演繹法ではなく、実際の事例や文献に基づいて、共通するエッセンスや要素を抽出する方法である。   

また、幸福とは単なる主観的感情や「各人が望んでいる状態」であるという命題に終始してしまうと、その普遍性が失われるおそれがある。

そこで、本稿では、古典的幸福論と呼ばれる文献―ヒルティの『幸福論』、アランの『幸福論』、ラッセルの『幸福論』、さらにはセネカの『人生の短さについて』やショーペンハウアーの『幸福について』など―を丹念に読解し、そこに示される「お金」と「幸福」の関係、ひいては労働や余暇とのトレードオフ、内面的充足と外面的条件のバランスについて検証する。

さらに、現代日本の物価水準や労働市場を背景とした嗜好の具体例として、とんかつを外食で楽しむこと取り上げ、年収800万円前後という水準がなぜ「十分な量」として幸福に寄与するのか、その根拠を経済学的に考察する。

本稿は、古典的な思想と現代的な生活の双方から、真の幸福の条件とは何かを証明することを目指すものである。

読者が自らの生活や働き方、そしてお金との関係を再考する一助となることを願っている。


幸福論の古典の読解:帰納的アプローチ

帰納法に基づいた幸福論の古典読解というアプローチ

文献検索で発見した三大幸福論の存在

幸福をテーマにした本はたくさんあるが、ここでは新書でなく古典に絞って選択した。

新書は時の試練を経ておらず、普遍的なテーマについての情報源としては、人間の本質を深く洞察した古典を読み込むのが有意義と考えたためである。

幸福論の古典と検索すると、ウィキペディアに幸福論というページがあり、三大幸福論の存在を知った。

幸福論(こうふくろん、Eudaemonics)とは幸福ひいては人生そのものについての考察・論究のことをいう。

今日「三大幸福論」と言えば、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論を指す

ウィキペディア、幸福論

三大幸福論と言われるくらいなのだから、きっと素晴らしい本に違いない。

早速、図書館で三大幸福論とそれをサポートしうる関連書籍を借りてきた。

幸福と関連性の高い要素の特定

幸福論を一通り読んだ上で、それらの内容を幸福と関連性の高い要素についてそれぞれ整理しようと考えた。以下のドキュメントを参考にした。

ここでは考えることを「事実→整理→要約→感想」のステップで捉えている。

幸福論を読んだことで「誰が幸福について何と言っているか」という事実は手に入った。

次に幸福に関する質問としては、「〇〇と幸福の関係について、□□は何と言っているか」という簡単に答えが一つに絞られる問いを作り、具体的に引用することで回答する形で整理し、要約し、感想を書いていく。

次に問題となるのは、どのような要素との関連性での幸福についての質問を作るかだが、大きな方向性として、内面的・人格的な点との関連性と外面的・条件的な点との関連性の二種類が考えられる。

内面と外面に明確な境界線をひけるのかという疑問はある。例えば、以下のような観点がある。

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等等、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないごとく、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うがごとくおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

三木清、人生論ノート他二篇、角川ソフィア文庫、p.25

この文章は日本人の哲学者である三木清が書いたエッセーの一部なのだが、三木は幸福を単に内面的なものというよりは外にあらわれる表現的なものと捉えている。

幸福は、幸福になるという行動というよりも、幸福であるという状態として捉えるなら、それが外から目に見える形での表現的なものとして理解するのもわからないでもない。

しかし、幸福を表現的だとしたところで「どうすれば幸福になるか」という肝心の疑問に答えられない懸念がある。

なぜなら、三木の観点だけでは、諸々の結果としての表現的な幸福といった解釈に留まり、その原因をあくまで外部に求めてこそ、再現性のある形での幸福の実現につながると考えられるからだ。

以上の理由で、内面的や、内面と外面の間としての表現的な問いではなく、外面的な問いに集中する。

もう一つの重要な観点として、外面的な条件を捉えるにあたり、社会性との整合性を取る必要があるということに注目したい。

なぜなら、反社会性は、長期的な視点で社会との折り合いのつかなさから、持続的な幸福の実現は困難を極めると考えられるからだ。

具体的には、劇場版シン仮面ライダーの登場人物であるクモオーグを考えるといい。

クモオーグは人間嫌いであり、人間を始末することで幸福感を得ることから人間に襲いかかり、最終的にそのことを問題視した仮面ライダー一号こと、バッタオーグに倒された。

人間を嫌っており、彼らを自らの手で始末することで幸福感を得る性質から、SHOCKERにおいては裏切り者などを始末する役割を持つ。

仮面ライダーWEB、クモオーグ

もしクモオーグの性質が人間の始末を己の幸福感と結びついていなければ、倒される事態に陥らなかったはずだ。

したがって、社会と適切に折り合い、持続可能な幸福の実現につながるような外面的条件とは何かを探索したい。

以上の観点から、本稿は「お金」と「幸福」の関係について、哲学者たちは何と言っているかについて整理したい。

お金は自分自身にとっても多くの人にとっても関心のあるテーマだと考えたからである。

多くの人が関心があると考える根拠として、本屋などはでお金に関する本が積まれており、その傾向はnoteをはじめとしたネットでも同様であることが理由として挙げられる。

社会との折り合いのつくことでお金を得ることが一般的であるという点でも持続可能な幸福を考える上で重要と考えた。

ヒルティの『幸福論』

三大幸福論の一つ目は、ヒルティの『幸福論』である。

ヒルティという人は日本国内ではあまり知られていないかもしれない。

自分も今回の文献調査で初めてその名前を知った。

哲学者であり法学者であるヒルティは、宗教、特にキリスト教の信仰による幸福を唱えたことで有名だった。

ニーチェやショーペンハウアーなどを批判したアンチニヒリストでもある。

ヒルティの『幸福論』で興味深かったページに付箋を貼ったところ、全体で403ページのうち27ページだった。

したがって付箋の割合は27/403 = 0.0669 = 6.7%だった。

まずまずの読み応えだったと思われる。

付箋を貼ったページをメモとして列挙する。

要するに以下のページが特に面白かった。

  1. p.9

  2. p.14

  3. p.16

  4. p.44

  5. p.72

  6. p.138

  7. p.140

  8. p.144

  9. p.146

  10. p.147

  11. p.148

  12. p.149

  13. p.155

  14. p.179

  15. p.181

  16. p.192

  17. p.196

  18. p.238

  19. p.266

  20. p.283

  21. p.284

  22. p.286

  23. p.306

  24. p.308

  25. p.320

  26. p.357

  27. p.377

ヒルティの『幸福論』

働き方や時間術などが書いてある点で実用書に近い内容だった。

幸福については、ありきたりな議論が続いていたので記述は引用しないが、仕事をすることで人間は幸福になるとのことらしい。

仕事に疲れがちな人間からすると信じがたい価値観ではあるが、必要な本と思われる。

ヒルティの『幸福論』での見解は、「幸福」という章での「不幸は避けることができない」という人生体験から、以下の結論に至る部分で確認ができる。

それゆえ、真の幸福感にとっては、外面的境遇のごときは、たしかに高い程度までどうでもいいことになりうるのであり、この境遇に処するに無感覚をもって解決策とせんとして失敗したストア主義の問題も、他の方法によって現に解決されうるのであるが、しかし、苦悩や不幸は人間が地上において持たざるを得ないものであり、どうあってもそれと妥協せざるを得ないのである。ここでもさしずめ役に立つのは、よく考えることであり、一時の感情を制して確固たる志操を立てることである。

ヒルティ、秋山英夫訳、幸福論、pp.181-182、角川ソフィア文庫

ヒルティは以上の観点から、人間が深くなれば外面的境遇には左右されなくなると語っている。

これはあくまでヒルティがそのように言っていたという事実でしかないが、最初から不幸も考え方次第という意見はパンチがある。

アランの『幸福論』

三大幸福論の二つ目は、アランの『幸福論』である。

日本国内では幸福論といえばアランというくらいの知名度ではないだろうか。

アランは人気のあるエッセーを書く人で、その主張は疲れた人に寄り添った優しい語り口だ。

アランの『幸福論』で興味深かったページに付箋を貼ったところ、全体で325ページのうち22ページだった。

したがって付箋の割合は22/325 = 0.0676 = 6.8%だった。

こちらもまずまずの読み応えだったと思われる。

付箋を貼ったページをメモとして列挙する。

要するに以下のページが特に面白かった。

  1. p.21

  2. p.26

  3. p.63

  4. p.81

  5. p.135

  6. p.142

  7. p.156

  8. p.160

  9. p.163

  10. p.174

  11. p.283

  12. p.292

  13. p.293

  14. p.294

  15. p.300

  16. p.302

  17. p.303

  18. p.304

  19. p.307

  20. p.311

  21. p.314

  22. p.316

アランの『幸福論』

趣味を増やすことや身体を動かそうなどの取り組みやすいアドバイスが多いライフハック本のような幸福論だった。

頭を使いすぎて疲れている現代人にピッタシのノウハウが多い。

哲学書というよりはエッセーのような内容だった。

アランの『幸福論』での見解は、「王さまは退屈する」と書かれた章の中で「富には二種類ある」と指摘した以下の部分で確認できる。

ふつうは現実の富よりも想像によってより大きな幸福感が得られるものである。なぜかというと、現実の富が得られると、人はそれですべてが終わったと思い込み、その場に座り込んで、もう求めることをしなくなるからである。富には二種類ある。手に入れると座り込んでしまうような富はわれわれを退屈させる。われわれの好む富というのは、更にその次の計画や仕事をもとめる富である。それは農夫が欲しくてたまらなくて、努力して最後にようやく手に入れる畑のようなものだ。なぜなら、われわれの気に入るのは見えない力であるから。休息している力ではなくて、行動している力だから。何もしない人間はなんだって好きになれないのだ。

アラン、神谷幹夫訳、幸福論、pp.156-157、岩波文庫

富には二種類あるという着眼点は面白いと思った。

有り余る財産がかえって人間の行動力を奪ってしまうなら、結果的に幸福につながらず、財産によって行動が加速するなら、自ずと幸福になるイメージはある。

ラッセルの『幸福論』

三大幸福論の三つ目は、ラッセルの『幸福論』である。

ラッセルは哲学者、数学者、平和運動家といったいろんな顔を持つ。

アインシュタインとともに水爆反対運動をしたり、ベトナム戦争の抗議行動をしている。

作家としてはノーベル文学賞を受賞している。

思考力と行動力を兼ね備えた人物で、論理的思考力は第一級だが、幸福論の文体は哲学の素人もとっつきやすい。

ラッセルの『幸福論』で興味深かったページに付箋を貼ったところ、全体で376ページのうち24ページだった。

したがって付箋の割合は24/376 = 0.0638 = 6.4%だった。

こちらもまずまずの読み応えだったと思われる。

付箋を貼ったページをメモとして列挙する。

要するに以下のページが特に面白かった。

  1. p.16

  2. p.49

  3. p.64

  4. p.98

  5. p.101

  6. p.117

  7. p.123

  8. p.126

  9. p.144

  10. p.164

  11. p.178

  12. p.193

  13. p.213

  14. p.230

  15. p.233

  16. p.280

  17. p.310

  18. p.317

  19. p.322

  20. p.324

  21. p.326

  22. p.329

  23. p.330

  24. p.335

ラッセルの『幸福論』

何事もバランスが大切という考え方が根底にある幸福論だった。

例えば、「金がなさすぎるも苦しい」が「金のために働きすぎても苦しい」という極端な状態や行動を避ける中庸の実践が核にあった。

非常に明快な主張だ。

ラッセルの『幸福論』での見解は、成功と幸福の関係が指摘された「競争」という章で、著者のバランス感覚が発揮された、以下の部分で確認できる。

禍いの根源は、他人との競争上の成功を幸福の主たる源泉としてあまりにも強調し過ぎるところに由来する。成功したいという感情が人生を容易にたのしいものにさせるものだということを、私も否定はしない。たとえば、その青年時代をまるで世間に知られずに過ごして来た画家は、一度その才能が認められるや否や、非常に幸福になるだろう。さらにまた、金というものが、ある一点までは、幸福を増大するうえに非常に役立つものであることを、私も否定はしない。しかしその一点を超えてなお、金が幸福を増大せしめるとは思わない。つまり、私の言いたいことはこういうことなのだー成功は幸福のなかの一つの要素になり得る、けれども、もし他のあらゆる要素が成功を獲得するために犠牲にされたとしたら、成功の値いはあまりに高価となり過ぎる。

B・ラッセル、堀秀彦訳、幸福論、pp.64-65、角川ソフィア文庫

金は幸福に役立つが、他の幸福に関係ある要素を犠牲にしたらその限りではないという意見は、非常に現実的であり、現代でも通じる原則と思われた。

セネカの『人生の短さについて』

三大幸福論を補う古典として『セネカの人生の短さ』について取り上げる。

理由として、幸福な人生を考えるにあたり、そもそもの人生自体が短い事実を認識することが重要であると考えたこと、セネカ以降の人生哲学にセネカの思想が与えた影響が大きく、幸福論も例外でないと考えたからだ。

セネカ『人生の短さについて』で興味深かったページに付箋を貼ったところ、全体で310ページのうち26ページだった。

したがって付箋の割合は26/310 = 0.0838 = 8.4%だった。

三大幸福論よりも読み応えが良かったと思われる。

付箋を貼ったページをメモとして列挙する。

要するに以下のページが特に面白かった。

  1. p.25

  2. p.38

  3. p.40

  4. p.59

  5. p.66

  6. p.72

  7. p.88

  8. p.156

  9. p.194

  10. p.205

  11. p.206

  12. p.207

  13. p.208

  14. p.209

  15. p.211

  16. p.216

  17. p.223

  18. p.224

  19. p.234

  20. p.240

  21. p.245

  22. p.247

  23. p.249

  24. p.252

  25. p.254

  26. p.256

セネカの『人生の短さについて』

この本では、人生の短さについての他に二つの往復書簡のようなやりとりがついている。

一つはセネカからセネカの母親への手紙で、タイトルは「母ヘルウィアへのなぐさめ」。

セネカが不倫した疑惑でセネカがトラブルに見舞われるのだが、息子の境遇を嘆き悲しむセネカの母に対し、セネカが励ますという内容。

セネカのせいでセネカの母が嘆き悲しんでいるにも関わらず、セネカによると「母は嘆き悲しむ必要がない」だとか、「母が幸福になるために必要なのは学問である」などと説教してしまう、セネカの母に追い討ちを与える目的としか考えられないような説教が書いてある。

哲学者の息子を持った母親の心労がおもんばかれる、誰も受け取りたくない不幸の手紙である。

そして、歴史に残るレベルのバカ息子から哀れな母への手紙を現代の暇人が読むというのも奇妙な話ではある。

人生の短さを考えるなら、こんな手紙を読む時間ほど勿体無いものはない。

もう一つの手紙は、セネカの友人セレヌスが自分の欠点をセネカに相談する手紙に対するセネカからの返事で「セレヌスに必要なのは心の安定である」とこれまた説教する手紙である。

セネカも大概だが、そんなセネカに相談してしまうセレヌスも大概だ。

類は友を呼ぶということわざがあるが、この往復書簡ほど適切な使う場面はない。

セネカの『人生の短さについて』での見解は、多忙な人と偉大な人を比べ、人生について知るということこそ最も大事なことであり、そのために財産を投げ打った偉大な人を肯定する以下の箇所で確認できる。

生きるということから最も遠く離れているのが、多忙な人間だ。生きることを知るのは、なによりも難しいことなのだ。ほかの技術の教師なら、どこにでもたくさんいる。なかには、年端もいかぬ子どもが習得してしまい、それを教えられるまでになった技術さえ目にする。しかし、生きることは、生涯をかけて学ばなければならないのだ。さらにいえばーあなたはいっそう驚くことだろうー死ぬことも、生涯をかけて学ばなければならないことなのだ。

あれほど数多くの偉大な人物が、すべての邪魔ものを捨て去り、財産も地位も快楽も投げうって、生きることを知るというただひとつの目的を、人生の終わりまで追求し続けた。にもかかわらず、彼らの多くは、自分はいまだそれを知らないと告白して、人生を去っていったのだ。だから、ましてや、あの多忙な人たちが、それを知ることなどないのである。

セネカ、中澤務訳、人生の短さについて他2篇、pp.37-38、光文社古典新訳文庫

セネカにとって、人生は人生それ自身を知ることが最も重要であり、財産や地位や快楽のために多忙な生活を送ることは本末転倒と指摘しており、大変哲学者らしい富の追求への批判のように思われた。

ショーペンハウアーの『幸福について』

三大幸福論を補う別の古典として、ショーペンハウアーの『幸福について』も取り上げた。

いちいち含蓄のある言葉が書いてあり、全ページ良い。

ショーペンハウアーの『幸福について』で特に興味深かったページに付箋を貼ったところ、全体で427ページのうち66ページだった。

したがって付箋の割合は66/427 = 0.0154 = 15%だった。

かなりの読み応えだったと思われる。

本当は全てのページに付箋を貼りたいくらいだったが、付箋を貼らないのと違いがなくて意味がないので、仕方なく厳選してこれだった。

付箋を貼ったページをメモとして列挙する。

要するに以下のページが特段に面白かった。

  1. p.10

  2. p.19

  3. p.21

  4. p.23

  5. p.24

  6. p.32

  7. p.34

  8. p.40

  9. p.43

  10. p.44

  11. p.46

  12. p.47

  13. p.48

  14. p.50

  15. p.53

  16. p.58

  17. p.60

  18. p.76

  19. p.80

  20. p.90

  21. p.96

  22. p.98

  23. p.172

  24. p.175

  25. p.178

  26. p.180

  27. p.182

  28. p.190

  29. p.192

  30. p.194

  31. p.203

  32. p.208

  33. p.210

  34. p.222

  35. p.225

  36. p.230

  37. p.236

  38. p.238

  39. p.239

  40. p.240

  41. p.243

  42. p.244

  43. p.245

  44. p.249

  45. p.262

  46. p.274

  47. p.294

  48. p.301

  49. p.305

  50. p.307

  51. p.308

  52. p.311

  53. p.316

  54. p.318

  55. p.322

  56. p.323

  57. p.325

  58. p.335

  59. p.340

  60. p.350

  61. p.354

  62. p.358

  63. p.365

  64. p.370

  65. p.371

  66. p.374

ショーペンハウアーの『幸福について』

ショーペンハウアーは、人間の生は性欲が満たされないことの苦悩と身体の苦痛に満ちた苦しみしかなく、人間が幸福になることはないという思想で、自分としては最も共感できた。

しかし、そんなショーペンハウアーだからこそ、幸福を語る意義があると、彼は考えて幸福論を書いたというのが面白かった。

ショーペンハウアーの『幸福について』での見解は、大前提として、人間は幸福にならないという結論が最初に書かれている点が他の本との一番の違いである。

さて、人生はこうした幸せな生活という考えに合致するものなのか、あるいはせめて合致する可能性はあるのかという問いに対して、読者もご存知のように、私の哲学はノーと答える。

ショーペンハウアー、鈴木芳子訳、幸福について、pp.10-11、光文社古典新訳文庫

幸福になる方法を探して手に取った本の冒頭で「私の哲学はノーと答える」と書かれてあるのにずっこけてしまった。

しかし、ショーペンハウアーの哲学は現実的かつ危険を避ける言葉が多く、財産との付き合い方も書かれており、例えば以下の部分などで確認できる。

現にもっている財産は、たくさんの不慮の災厄や事故に対する防壁とみなすべきで、世の快楽を呼び込むお許しが出たとか、義務づけがなされたなどとみなすべきではない。親譲りの財産はなくても、いかなる才能であれ、自分の才能でついに大儲けできるようになった人々は、ほとんどが、自分の才能こそが永続的な資本であり、儲けはそこから生じた利潤だと思い込むようになる。そこで、かれらは儲けの一部を貯金して、永続的な資本はつくろうとはせず、稼いだ分だけ支出してしまう。けれども、たとえば、ほとんどすべての芸術がそうであるように、才能ははかない性質のものなので、才能そのものが枯渇すると、儲けは伸び悩み、途絶えることもあれば、あるいは、特殊事情や景気のおかげで才能が幅をきかせただけで、この特殊事情や景気が立ち消えてしまうこともあるため、かれらはたいてい貧乏になる。それでも手仕事をする職人なら、前述の方法でやっていくことができる。かれらの仕事の能力はたやすく消え失せるものではなく、雇い入れた職人の手を借りて補うこともできるし、かれらがつくる製品は必需品なので、常に売れ行きが見込めるからだ。それゆえ「手に職があれば食いっぱぐれない」という諺は正しい。しかし芸術家や各方面の名人はこういうわけにはいかず、だからこそ高い報酬が支払われる。それゆえ儲けを元手とすべきなのに、かれらは不遜にも単なる利潤とみなし、そのために身の破滅を招く。

これに対して相続財産をもつ人々は、何が元手で、何が利潤か、少なくとも一目で的確にわかるので、かれらの大部分は元手の確保につとめ、決して元手には手をつけずに、できればせめて利潤の八分の一は貯蓄して、将来の不振にそなえようとする。だからたいていは、ずっと裕福な生活を送る。

だが、前述したことは商人にはあてはまらない。というのも商人にとって、お金そのものがさらなる儲けの手段であり、いわば手仕事をする職人にとっての道具のようなものだからである。自力で得たお金であっても、活用して維持・増加につとめる。したがって商人ほど、根っから富に精通している職業はない。

ショーペンハウアー、鈴木芳子訳、幸福について、pp.76-77、光文社古典新訳文庫

財産を生み出した原因が、芸術家や名人の場合は、財産を生み出した才能の枯渇によって失われやすいのに対し、相続や商売で得た金はその背景を認識していることで守りやすいという指摘で、真っ当な主張のように思われる。

付箋の割合の比較

今回主に参考とした本のページ数を合計すると、403ページ + 325ページ + 376ページ + 310ページ + 427ページ = 1841ページであり、そのうち付箋を貼ったページは27ページ + 22ページ + 24ページ + 26ページ + 66ページ = 165ページだった。

全体の付箋の割合は165/403 = 0.0896 = 9.0 %であった。

ショーペンハウアーだけ突出して高いが、他は概ね同じくだいの割合のためバランスよくエッセンスを吸収していたことが確認される。

以上から、読解それ自体は何か一つの思想に極端に偏らずにサンプリングしたと思われる。

古典的幸福論を読んで得られた結論

ここまで読んできてわかったのだが、お金という要素一つとっても哲学者の主観次第でその見解はバラバラで、矛盾だらけであった。

幸福論の古典を読んでもその時間は道徳の授業を受けているような退屈さに苦しむだけで、読めば読むほど混乱し、幸福から遠ざかる感覚すらあった。

哲学などしたところで金にはならないので、金が幸福に関係があるのなら、哲学などに費やしている時間を労働や投資でも回した方が良いのであろう。

適度な豊かさとは

幸福経済学が示す理想的な収入水準

ここまでで見たように、哲学者たちが口々に「幸福とは何か」を論じまくる騒ぎに、正直「意味あるのか?」と首をかしげる始末だ。

彼らの主張は矛盾だらけでぶつかり合い、まるで意味のないレゴブロックを無理やり組み立てたようなものだ。

さて、私たちがもし仕事をしたり投資をしたりするなら、こんな混沌とした哲学論争に付き合っている暇はない。

そこで注目すべきは、有名な経済評論家であり投資家でもある人の意見だ。

彼女は、まるでファッション雑誌の表紙を飾るかのような輝きを放ちながら金と幸福の関係について鋭い洞察を下す。

「仕事するなら、迷える哲学者のように頭を悩ませるより、現実の数字と向き合いなさい!」と、彼女は笑いながら語るであろう。

投資についても、カフェで最新のコーヒーを嗜むかのような余裕とともに、リスクとリターンのバランスを冷静に見極める。

つまり、哲学的な幸福論なんて、私たち庶民にとっては、ただの夜のテレビドラマ並みのエンターテイメントに過ぎず、現実の厳しい数字と闘うためには、彼女のような実践派の意見こそが頼りになる、というわけだ。

結局のところ、混沌とした哲学の議論は、金を稼ぎ、増やし、守るための実戦的な指南にはならない。

むしろ、彼女の斬新かつ皮肉たっぷりの視点に耳を傾ける方が、我々の財布と心にとっては、ずっと実用的で笑えるほどの救いとなるのだ。

その女性によると、幸福とお金、勉強の関係は、以下の言葉で説明される。

それでは、社会人の勉強の最大の問題点、つまり、勉強を妨げる「敵」は何でしょうか?答えは、モチベーションが続かないこと。一瞬やる気になっても、忙しすぎて、なかなか勉強に対するモチベーションが続かないのです。では、それを続かせるにはどうするのか。この答えもシンプルで、要は、勉強すればするほど、毎日、だんだん幸せになっていけばいいのです。どうやって?簡単です。勉強することによって、年収が、実感できるスピードで上がっていけばいいのです。逆に言えば、年収アップにつながる勉強をすることです。各種の研究によると、年収がだいたい一五〇〇万円になるくらいまでは、年収と幸福感の間には正の相関があるいわれています。つまり、年収が上がるほど幸福感が上がる、というわけです。これは「幸福の経済学」と呼ばれています。したがって、もし幸せになりたいのであれば、年収を上げること。そして、年収を上げる手っ取り早い道は、年収増につながるような勉強をして、それを実践の場で生かすことなのです。もし、仕事の場で生かすのに時間がかかるのだったら、資産運用で勉強の成果を生かすことも可能です。自分の勉強の成果を投資として生かそうと考えると、日々読んでいる雑誌や新聞の読み方も、まったく違ってきます。勉強するほど幸せになる、という成功体験をつくってしまえば、無理矢理、目標設定などをしなくても、隙間時間に勉強するのが自然に習慣化されます。慣れていない人にはむずかしく聞こえるかもしれませんが、安心してください。効率的な勉強のやり方とそれを使った収入増の手法は、スポーツと同じです。つまり、正しい基礎体力づくりをし、いい指導を受ければ、必ず身につくスキルです。

勝間和代
無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法
pp.3-5
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2007

実際のところ、稼ぎすぎるのは大変な労力を必要とするものであり、適度に稼げれば十分ではないだろう。

確かに、ある研究で年収が1500万円に達するまでは所得と幸福感に正の相関があるとされるとしよう。

しかし、現実は、長時間労働やストレスにさらされることで、心身の健康や余暇の充実が犠牲になる危険性が高い。

実践的な成功体験とは、必ずしも過度な収入増加に依存するものではなく、むしろ適度な稼ぎで余裕ある生活を維持し、家族や趣味、知的活動に時間を割ける状態こそが、本当に豊かな生活と言えるのではないか。

スピノザが示す適度な豊かさと健全な生き方

重要なことは、経済学的な合理性や抽象的な哲学に頼るのではなく、実際の生活における健全なバランス―すなわち、適度な収入を得て、無理なく生活の基盤を整えること―を重視する姿勢である。

参考となるのが、神学者のスピノザの言葉である。スピノザは、民衆に理解されやすい言葉で、過度な富追求がもたらす弊害を警告しつつ、必要な資源を確保し、健康と日常の安定を維持することの大切さを説いている。

数字や抽象論にとらわれることなく、現実に即した実践的な生き方―適度な収入で十分に生活を楽しみ、無理なく自分らしく生きる―がすすめられる。

I 民衆の理解力に合わせて話すこと、また私たちのねらいを達成するさまたげにならないことなら、すべてこれを行うこと。というのも、できるかぎり民衆の理解力に寄り添いさえすれば、私たちは彼らから少なからぬ便益を得ることができるし、そうすることによってさらに、彼らが真理を聞こうとしてより好意的に耳を傾けてくれることになるだろうからである。
II 歓楽は、健康を保つのに足る程度に享受すること。
Ⅲ 最後に、貨幣その他いかなる財であれ、生と健康を維持し、また私たちのねらいに差し支えない社会の習俗に倣うのに足る程度にそれを求めること。

バールーフ・デ・スピノザ
明保亘訳
p.20
講談社学術文庫
2023

スピノザの教えは、現実に根ざした生き方の大切さを説いている。

彼が述べる「歓楽は健康を保つに足る程度に享受すること」や、「貨幣その他の財は、生と健康を維持するための手段である」という考えは、私たちに、無理に高収入を追求して働き詰めになるよりも、適度な収入を確保し、心身の健康と生活の安定を重視する生き方の重要性を教えてくれる。

経済や抽象的な哲学に振り回されるのではなく、現実的な数字と生活の質を重んじることで、健全なライフスタイルを築ける。

つまり、必要以上に稼ぐことではなく、適度に稼ぎ、心と体の余裕をもって日常を充実させることこそが、真に持続可能な幸福につながる道である。

とんかつが教える最低限の豊かさ

『美味しんぼ』という漫画では、「好きな時にとんかつを食べられるくらいがちょうどいい」というエピソードが語られています。

これは、豪遊や過剰な贅沢ではなく、必要十分な生活資源があれば、好きなときに好きなものを楽しむ余裕が持てる、という考え方を象徴しています。

実際、地方での生活では、月々の生活必需費が低く抑えられるため、たとえば月の生活必需費を10万円とした場合、余裕資金があれば、とんかつのような嗜好品を楽しむことも十分に可能となります。

ここでは、そんな「とんかつ生活」を実現するための最低限必要な収入を、シンプルな計算式で示してみましょう。

【計算式】
まず、月の生活必需費を

$$E=100,000 円$$

とし、とんかつ1食の価格を

$$P=1,200 円$$

月にとんかつを楽しむ回数を

$$N=8 回$$

と仮定します。

年間のとんかつ費用 Fは

$$F=N×P=8×1,200=9,600円$$

よって、月の最低必要収入は

$$E+F=100,000+9,600=109,600円$$

年間では、

$$12×109,600=1,315,200円$$

この計算から、地方暮らしで月10万円の生活必需費と、月8回のとんかつの外食を楽しむための最低限の収入は、年間約131.5万円となります。

過剰な富を追わず、必要十分な収入があれば、日々好きなときにとんかつを楽しむ余裕のある、シンプルかつ現実的な幸福の設計図が得られるのです。


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