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「雑感」を記す —コンビーニングに参加して/現代美術館はメンタルヘルスクリニックになり得るか?

白木 栄世(森美術館アソシエイト・ラーニング・キュレーター)
撮影:冨田了平


2020年4月に発令された緊急事態宣言にともなう5カ月間の森美術館の閉館は、当たり前のようにそこにあった「アートを見る場」を、観客から、そして働く美術館スタッフからその機会を奪った。美術館はアート作品がそこにあるだけではない。美術館は社会教育機関として、社会のなかでその役割を担い、美術館を訪れる人たちの身体的にも、精神的にも大きな影響を与え、その役割を果たしてきた。インターネットを駆使してデジタル空間のなかで作品の一片を見たとしても、身体が記憶した美術館体験とは異なるものであることはコロナ禍で多くの人が体験したことだろう。長期にわたる美術館閉館は、これまで可能だった美術館体験への切望をあらためて痛感させた。鑑賞体験を確かめる記憶、それは、誰かと一緒に鑑賞したのであれば相手の素振りや会話した内容でもあったはずだ。鑑賞者に影響を与えてきたのは、展示されている作品だけでなく作品が展示される空間そのものであり、美術館のチケットカウンターや展示室内で来館者のケアをするスタッフの表情や態度もその要素だった。美術館を出るまでの一連の時間が作品鑑賞の体験ではなかっただろうか。英国南東部のマーゲートにあるターナー・コンテンポラリーを訪れた際、チケットカウンターのスタッフにアポイントがあることを伝え、担当者が出てくるまで待つ時間があった。何気ない日常のやりとりだったのだが、カウンターのスタッフの笑顔とその穏やかなやりとりの時間を鮮明に思い出す。アポイントの相手で当時のラーニング兼ビジターサービスのヘッドを務めていた担当者は、出会って開口一番「来館者が美術館で最初に出会う顔は、チケットカウンターのスタッフじゃない? 美術館にとって彼らの存在は大事なんです」と、話してくれた。美術館体験はチケットを購入する時からすでにはじまっている。日本で開催されるコンビーニングのテーマとして本題が提示されたときに思い出した記憶である。


美術館で体験する「他者」の大切さ

美術館で展示されているアートとはそもそも何だろうか。「芸術とは現実生活の再現または模倣の行為である」(*1)と、古代アテネのギリシャ人の芸術観の分析を事例に、「芸術は社会生活の主要な諸制度と結びついた感情や観念を反映するものである」(*1)と、語ったのは哲学者で教育学者のジョン・デューイである。デューイの言葉からさらに考えると、鑑賞者がこれまでの鑑賞者自身の経験と対峙し、ある時は未知の世界と出会い、またある時には差異を認識し他者という存在への共感とつながる、そのような体験がアートを見る行為=鑑賞体験と言えるのではないか。「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」展開催中の森美術館で実施された初回コンビーニングでは、展覧会の参加アーティストでもありコンビーニングの参加者でもある飯山由貴の言葉の紡ぎ方とその共有方法が鮮烈に記憶に残る。飯山の雑感をメモした手書きの資料を見ながら共有されたアートとメンタルヘルスについての経験は、アーティストの個人的な体験でありながら参加者に自己相対化と他者理解のきっかけを与えた。個人の声を丁寧にすくいあげ、それぞれを柔らかく結び付けて昇華させていく飯山の姿勢は、「地球がまわる音を聴く」展会期中に開催した彼女のワークショップ「《影のかたち》読書会」(*2)でも見事に結実していく。1回目のコンビーニングでは、森美術館の施設そのものを参加者が体験する時間も設けられ、体験後の共有の場で、「展覧会鑑賞後、床に寝転んで休める場があったら良い」、「美術館のなかにもっとノイズがあれば、みんな自分らしくすごせるのではないか」、「子どもが子どもらしく居れる場があると良い」などの意見が聞かれた。どの感想も、日常から遠く感じる美術館への声であり、特にコロナ禍で来館できなかった美術館体験への反動のようにも聞こえた。一方で、ラーニング・プログラムの活動がコロナ禍で見えにくくなっていることも実感させられた。未就学児とその家族、妊娠中の方とその家族を対象にした森美術館の人気プログラム「おやこでアート」もこのコロナ禍で実施回数は減り、再開しても感染対策のため定員を減らしての実施となり、一日の体調が変わりやすい子どもの幼少期に、気軽に美術館へ行ってみようと思う参加者の応募をさらに難しくしてしまっている。学校などのグループでの利用も極端に減り、リアルに実施するプログラムが少なくなったことは、美術館のなかで他者がアート作品の前でどのようにふるまうのかを知る機会を大きく損失させた。アーティストトークやワークショップなどのプログラムでアーティストと直接出会う機会も減り、飯山のようなアーティストの存在は遠くなり、現代美術館は特別な場所=非日常的な場に後戻りしてしまったようにも感じた。美術館のなかで如何に他者を意識できるか、その意識の回復について改めて考えさせられる回になった。


曖昧になった「境界」に学ぶこと

東京の日常を離れて福島県富岡町で開催された2回目のコンビーニングでは、福島第一原子力発電所事故の影響が続くその地で、美術館で働く立場で何ができるのかと考えさせられた。発言する際に自覚させられる「東京から来た私」。見聞きしたことについて感情をともなって言葉にすることが躊躇(ためら)われるなかで、表現行為やそれを鑑賞する行為は有効なのだろうかと、何度も問うた。社会には直接的な言葉で表現することが難しく、言葉に感情が伴うとコミュニケーションが難しくなることもある。2回目のコンビーニングでキーワードになった「雑談」は、他者との対話のなかで言葉が入り混じり、自分の言葉なのか相手の言葉なのか、どのタイミングから自分の考えが変わったのか、変わらなかったのか、その境界がポジティブに曖昧になる感覚を与えてくれた。境界が曖昧になることの重要性については、コンビーニングで作品を披露してくれた富岡出身のアーティストが「(作品を表現する際)自分であって、自分ではないのような感覚、その距離感が自分にとっては大事で、東日本大震災の経験についてようやく話せるようになった」と、作品紹介の際に言葉にしてくれた。表現することは責任を負うことでもある。作品表現とは、鑑賞者に一方的に負担を与えることもあれば、表現者の体験を追体験することもできる。鑑賞体験は私たちの身体の輪郭を曖昧にし、他者を受け入れることができる媒介者のような存在ではないか。「ディープ・ルッキング」を唱えるロジャー・マクドナルドは、アンナ・ハルプリンやリジア・クラークのワークショップや作品をとりあげ、「彼女たちの作品においては、身振りが固定化されてしまった現実の社会とは異なる方法で鑑賞者が体を動かし、想像力を呼び覚ます儀式に深く関わることになる。その結果、いかに私たち人間が無数の層のなかで生きているか、また、いかに一人ひとりが外側の世界とは独立した固有の体験によって生きているかが、鮮烈に示されることになる」(*3)と、彼女たちの作品体験をとおしてアート鑑賞の在り方を説く。これまで見えなくなっていた過去の経験の再認識を促し、他者との差異を自覚し、そしてその他者を受け入れることができるよう自己を更新すること。美術館での鑑賞体験とは私たちにそのような柔らかい変化をもたらせるものではないか。明日を生きるために即効性はないかもしれない。しかし、そのような行為が生まれる美術館にはメンタルヘルスクリニックになり得る可能性が確実にある。


*1──ジョン・デューイ著・栗田修訳『経験としての芸術』(晃洋書房、2010)

*2──「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」(会期:2022年6月29日‐11月6日)展に関連するラーニング・プログラムのひとつとして、ワークショップ「《影のかたち》読書会」を開催。出演には、参加アーティストの飯山由貴、森美術館アシスタント・キュレーターの熊倉晴子を迎え、飯山由貴の展示作品《影のかたち:親密なパートナーシップ間で起こる力と支配について》に関連したテキストを読み、話し合う場として会期中に4日間にわたるプログラムを実施した。

*3──ロジャー・マクドナルド著『DEEP LOOKING:想像力を蘇らせる深い観察のガイド』(AIT PRESS、2022)


PROFILE

白木 栄世/熊本県熊本市生まれ。2006年武蔵野美術大学大学院修了。2003年より森美術館パブリックプログラム・アシスタントとして勤務。2017年より同館アソシエイト・ラーニング・キュレーター。同館の展覧会に関するシンポジウム、ワークショップ、アクセスプログラム、学校プログラムなど、ラーニング・プログラムの企画・運営を行う。

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