見出し画像

連載1|分類別ミニマリスト論「芸術型」編

 [序文]

「ミニマリスト」が2015年流行語大賞に選出されて10年ほどが経ちましたが、いまだに「持たない暮らし」に憧れる人は少なくありません。

その約5年前、作家・やましたひでこさんの著書『新・片づけ術 断捨離』がきっかけで「断捨離」がブームになり、同じく2010年の流行語大賞が選ばれました。

やましたひでこさんの提唱する断捨離の思想は、ヨガの行法哲学である「断行・捨行・離行」をヒントに生まれたものでした。ただモノを捨てるだけでなく、執着を手放して自由になろうという考え方が根底にあるわけですね。

そうした情勢にあってさらにスマートフォンが普及したことで、様々なモノの役割が手のひらサイズに代替されるようになり、「持たない暮らし」の実践ハードルが大きく下がりました。

ミニマリズムは「minimal(最小限)+ism(主義)」から「必要最低限のモノで暮らす」ことを意味します。

世間ではミニマリズムについて様々な意見が飛び交っています。
肯定派は、
「モノを手放せば人生が豊かになる」
「自分らしく生きられるようになる」
「好きなモノに囲まれて幸福度が上がる」
「目の前のことに集中できるようになる」
「無駄遣いが減ってお金が貯まるようになる」
「心身が健康になりました」

懐疑派は、
「モノを捨てただけで豊かになるとなぜ言い切れるのか」
「貧乏くさく見える」
「家庭を持ったらどうするのか」
「モノをたくさん持っている人を見下している節があり不愉快だ」
「モノに対する消費行動が減ることで経済の停滞に繋がるのではないか」
「ミニマリズムなんてポジショントークだろう」

等々、挙げるとキリがありません。

各々がミニマリズムについて定義や意見を述べていますが、あまりに論点が錯綜し過ぎています。

たとえば、きれい好きが高じてミニマリストになった人に対し、経済的な論点を持ち出して批判したところで話がかみ合わないでしょう。あるいは困窮してモノを所有する余裕のない人にたいし、この人はモノを持たないから豊かだろうとは決めつけられません。

是非を問う以前にそもそもミニマリズムを実践する動機は人によって異なるため、それぞれの領域で議論が交わされるべきであると考えています。

 [ミニマリスト4つの型とは]

この記事ではミニマリストの端くれである筆者が、自己批判的な視点でミニマリズムについて考えていこうと思います。

そこでまずはミニマリストを4つの型に分類し、形式化してみました。

1「芸術型
2「神経症型
3「惰性型
4「思想型

ほとんどのミニマリストをこのいずれかの型で説明できると考えています。またこれらはどれか1つというよりも、4つの組み合わせやグラデーションで見ていく必要があります。

今はまだミニマリストではない人も、この分類をもとに自己分析することでモノとの向き合い方が見えてくるかもしれません。

ミニマリスト論は複数回の連載形式とし、それぞれの型について解説していきます。

 [「芸術型」について]


定義:モノの少ないすっきりとした空間をインテリアとして志向する人。また、その空間での暮らしそのものに愉しみを見いだす人。いわゆるミニマリズムを通じての「丁寧な暮らし」。

ミニマリストに憧れる人の多くがこの「芸術型」です。しかし、この型の人は形から入ろうとするため、いざモノを手放そうとしてもなかなか上手くいきません。じっさいの芸術がそうであるように、大半の人にとって自己表現の理想はあれども手を動かし創作するとなれば挫折することが少なくありません。芸術は自己意志であり強制ではないからです。

そのためミニマリストとして暮らしていくなかで物欲が高じたり不便を感じたりした際には、収納を増やすなどしてごまかしながらモノを購入してしまいがちです。

ですから私は長年ミニマリストYouTuberを続けている人に「芸術型」は少ないと考えています。その理由については連載を追っていくうちに見えてくるでしょう。


 [美術館で暮らす]


20世紀中期頃からミニマリズムはアートや建築などの分野で広く認知されるようになりました。絵画だと幾何学図形の色や配置のみで構成された絵が思い浮かぶでしょう。

そこでアートとしてのミニマリズムを暮らしにひき寄せて考えてみます。

わかりやすい例が美術館です。
展示スペースによけいなモノを置かないようにして、来館者が作品の鑑賞に集中できる空間づくりがされています。
それにより作品そのものの存在感と魅力が際立っています。

無駄のそぎ落とされたミニマリストの部屋には、その人の価値観によって厳選されたモノしか置かれていません。本当に大切なモノだけに囲まれた暮らしです。

そこで最も重要なことがあります。それは、すっきりとした部屋の体積に占める物質の割合のうちで、その人自身の存在が際立ち、また暮らしのひとつひとつの動作に光が当たるということです。

日々の食事(シンプルな背景に見映えのする盛り付け、よく響く咀嚼音)、掃除(用具の厳選、隅々まで目視できる埃や染み)、睡眠(清潔で広々とした空間、静寂)など、暮らしの細部にいたるまで「今、ここ」の意識がはたらくようになるのです。

Less is more

20世紀を代表するドイツの建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)の言葉として一般に知られています。
直訳すると「少ないほど豊かである」という意味になります。

また、現代のミニマリスト界隈ではつぎのような表現がよく謳われます。

モノを手放せば人生が豊かになる

私自身もすっきりとした空間で生活をしていると、いくらか丁寧になったように感じられる暮らしに豊かさを感じることがあります。

ですが、初めに4つの型に分類したように、ミニマリストまたはミニマリストになろうとしている人にはそれぞれ違った動機があるはずです。個性もバラバラです。

それを内省せずにモノを手放したとしても、たったそれだけで豊かになるとはかぎりません。

むしろ後悔してしまうこともあるでしょう。その人の価値観と実践内容が合致したとき、はじめてその人らしい豊かさを感じることができるのです

 [日本人のミニマリズム精神]


日本では昔からミニマリズムの精神が文化に根付いているとよく言われます。

禅はまさにミニマリズムと共通する思想です。執着を手放し、簡素な空間で己と向き合うさまは、モノの少ない部屋でおのずから自分自身と向き合うようになることに通じます。

茶道もそうです。茶室を簡素にしつらえ、茶をつうじて作法が洗練されるさまは、モノの少ない部屋の中でその人の動作が際立ち、暮らしが丁寧になっていくことに似ています。美しい作法が茶を美味しくするように、丁寧な暮らしによって日々の生活に情味を感じられるようになります。

そのほかにも、清掃納言の『枕草子』の作中で「うつくし」という表現が特徴的に使われています。
これは美しいではなく「かわいい」の意であり、小さなものを愛でる心から来ています。

また韓国人の著者による『「縮み」志向の日本人』という本の中では、ソニーの開発したウォークマンなどを例に出し、日本人の小ささへの志向性が述べられています。
Appleの創業者スティーブ・ジョブスの生み出したiPhoneなどのシンプルなデザインについても、その源流はかれの傾倒した東洋思想にあるとされています。
簡素で小さなものに価値を見いだす精神から、現代ミニマリズムの萌芽を見て取ることができるでしょう。

 [SNS時代の匿名性]

ところで、ミニマリストについて以前から考察したいと思っていたことがあります。

YouTube や Instagram などで、ミニマリストが嬉々とプライベート空間である自室を公開する心理についてです。

ずっと疑問でしたが、一般的な「他人に自分の部屋を見せたくない心理」を考え、それを裏返しにすることで見えてきました。

理由1 洗練されたおしゃれな空間であること。
理由2 モノが少ないため部屋が片付いていること。
理由3 所有物から趣味趣向が推測されにくいこと。

ほかにもあると思いますが、私は主に上記の3つを推してみます。

理由1、2はとくに目新しい点はないですが反論のしどころもないでしょう。ここでは理由3の「所有物の匿名性」に論点をしぼります。
考察にあたり、まずはミニマリストの物欲について少しお話しします。

ミニマリストは物欲が無いというイメージを持たれがちです。しかし、そうとも言い切れません。

たしかに所有物の数が少なく、必要性や合理性のみでモノを選んでいるように見えますけれど、じつのところは色や形状、質感などのデザイン性にもかなりこだわっています。
類似製品が数多くある中で、むしろ一点豪華主義的に高価格のモノを購入することもめずらしくありません。考えてみればシンプルな部屋づくりが目的なのですからとうぜんでしょう。

なぜミニマリストの物欲についてお話ししたのかと言いますと、このこだわりこそが自室公開という自己表現欲求をかきたてる大きな要素だからです。

もしも自分の部屋がすべてこだわり抜いたモノだけで構成された美術館のような空間であれば、それを他人に披露したくなっても不思議はありません。

ですが一般的には趣味嗜好やライフスタイルが丸裸になるため、ミニマリストのように部屋の隅々まで見せる人はあまり多くないはずです。

そのハードルを下げていることこそが「匿名性」です。

先ほどミニマリストのモノ選びにはデザイン的なこだわりがあると述べました。しかしそれと同時に所有物はどれも暮らしに必要なものであり、その必要性が口実になり得るために趣味嗜好にクリアな匿名性をあたえられているのではないでしょうか。

つまりミニマリストの部屋は徹底的にこだわり抜いたモノだけを集めた趣味嗜好全開の美術館であり、にもかかわらず恥部になりえそうな個性は秘匿されているのです。
「個性の透明な美術館」と表現できるかもしれません。

そのうえ「丁寧な暮らしをしている自分」をそれとなく他者へアピールすることもできるのです。

その様子はまるでユニクロのファストファッションを彷彿させます。
趣味がバレやすい個性的なブランドを避けてユニクロへ行き、服をじっくりと品定めしたものの、いざ購入し着用してみると、こだわり抜いたわりに個性が均質的であることと似ています。
それでも本人にとっては立派なこだわりに他ならず、満足感すらおぼえているかもしれません。
庶民的な金銭感覚のアピールにもなるというおまけつきです。

 [結びと予告]


「芸術型」の人は自分らしさを表現するためにモノを手放し、ミニマリストになるのでした。

そのばあい「モノを手放したから豊かになる」のではなく、「より豊かになるためにモノを手放す」と言えます。自分らしく生きるためにモノは必要ない、という自信が前提になっているからです。

つまり「芸術型」の人が憧れのミニマリストになろうとするばあい、生身の素材で勝負できるだけの自己肯定感=豊さがあらかじめ必要なのです。

自分に必要なモノの所有量を見定めぬうちに「モノを手放せば人生が豊かになる」の甘言を鵜呑みにしては、誤って本当に大切なモノまで手放してしまいかねません。
より豊かになるための適正量やモノ選びの感覚はすこしずつ地道に養っていくほうが得策でしょう。

「芸術型」のミニマリストは、自分らしくより豊かに生きるためにモノを手放す人なのです。

では、なぜミニマリストYouTuberたちはみな口を揃えて「モノ手放せば人生が豊かになる」と言い切っているのでしょうか?

それはかれらが、次回お話しする「神経症型」のミニマリストであるからと私は考えています。

YouTuberのようにミニマリスト生活が長く続く人には「神経症型」が非常に多いです。かくいう私もこの型にぴたりと当てはまります。

ひとまずこのあたりで芸術型の解説を区切ろうと思います。
みなさまはどのような感想をお持ちになったでしょうか。ご意見・ご感想をいただけると励みになります。ここまでお読みいただきありがとうございました。


〜おまけ〜
ミニマリストを語るにあたり便宜上「無駄を省く」という表現を使用していますが、私自身は無駄が人生に面白味をあたえるために必要なことであると考えています。雑貨屋を見てまわることもよくありますし、ガチャガチャの前を通りがかると視線がそちらへ引き寄せられます。
そう考えると、たとえモノに溢れた部屋であったとしても、ぜんぶがその人に必要なモノであれば主観的にはミニマリストと定義できると思っています。そのような部屋もまた、美術館と博物館の複合施設のような、心躍るすばらしい空間ではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!