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【なぜ発明?】ただ「なぜ」を突き詰めたいだけだった。

 なぜ発明論を構築しようと考えたのか。それは既存のシステム(ルール)への自覚に由来する。


1. 昇華された時

 2020年のパンデミックは私に「科学とは何か」を問わせてきた。失われる人間性、社会の不安定性。ただ「なぜなのか?」を問うには科学では狭過ぎた。その時になってようやく、根深く複雑な社会問題に気付かされた。

 そんな中出会ったのがまず技術論と科学哲学であった。技術への問いかけは理性への過信を明らかにし、技術それ自体の凶暴性を露わにした。科学哲学は科学の枠組みを提示した。客観性だとか再現性だとか言うけど、何を根拠にそう言えるのか裏付けてくれた。次に会ったのがデザインであった。思想に裏付けられたモノづくり。作り手の単なる好奇心だけでは見えてこない中心と周縁の関係と脈々と流れるモノづくりの理念を知った。それはまだ哲学と科学の不可分の時代でもあった。そして公共や倫理に道徳、西洋哲学、社会学などを通し、流れ着いたのが東洋思想であった。哲学の外へと追い出されてきた光の当たらない哲学たち。でもそれらは確かに我々の意識に根深く染みついていた。

2. 疑いの中の高校生

 これらの旅路で何を見つけたか。私は高校生あたりから、勉強に疑問を感じていた。それは何を根拠にこれらを教わっているのかということであった。まず第一に公式を覚えろだとか、助動詞はこうだとか、当時はこう考えられていたとか、歴史はこうあったとか、あらゆるものに根拠がなかった。何を持ってそう言い切れるのか。強く疑問が残っていた。それを先生(とあまり呼びたくない)にぶつければ、わからないだとか、受験に関係ないだとか、こういうものなんだとか、屁理屈しか言わなかった。これが第二の疑問である。

 私の心は常に「問い続けろ」「疑い続けろ」と叫んでいた。それは昔から偉い人の講演会だとかの若者へのメッセージでそう言われてきたためだ。それを成果によって証明している彼らはやっぱり輝いていた。そして私もそのようなことの重要性を創作の中で感じていた。一番記憶に残っているのは2018年京都大学の本庶佑先生がノーベル賞を受賞した時の言葉だ。

――科学を志す人に大切にしてほしいことは。
教科書に書いてあることを信じない。常に疑うこと。本当はどうなっているんだと考え、自分の目でものを見て納得するまであきらめない。そういう人に研究の道を目指してほしい。
――教科書を信じないとは。
教科書に載っているのは「今の時点で」みんながある程度、合意している事実。でも「絶対真理」ではない。状況によって変わっていくものです。教科書が全部正しかったら学問はいらない。これを書き換えることが君たちの手にかかっていると、学生にも話しています。

https://www.asagaku.com/chugaku/topnews/13861.html
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO36472380U8A011C1000000/

私はこの言葉に大いなる勇気をもらった。今まで感じていた教科書・学校への違和感。それが払拭される思いであった。そして常にこの言葉に支えられながら生きてきた。2021年、東京大学名誉教授の黒川清先生にインタビューを行った。様々な意見をもらったが、どんな言葉よりも帰り際に仰られた「常になぜと思い続けよう」と言う言葉が胸に響いた。これまでもこれからも私に一貫した心構えになるのだろう。

 そのような経緯から、私は高校生の時、学校に従った勉強に踏ん切りをつけて自分独自の勉強を展開した。それはすべてのなぜに答えられるように勉強(研究)し直すという行為だ。数学は一番わかりやすい。何が定義であり、定理なのか。一体数学という世界はどうなっているのか。高校数学という型からも抜け出し、数学の魅力に取り憑かれた。次にわかりやすいのが物理である。なぜその式が出たのか。なぜそう考えるのか。ガリレオの歴史から辿りながら、ニュートン、カルノー、マクスウェル、プランク、アインシュタイン、シュレディンガーなど現代物理学の概略を掴むことができた。そのように自分なりに知識を再構築した営みの意義はやはり今でも生き続けているように感じる。

3. 未分節の発見

 そのような勉学の中で見つけた最大の気づきは「未分節」である。様々なものを勉強している時、どうしても気になっていたことがあった。それはデカルトはなぜ哲学者だったり、科学者だったり、数学者だったりするのか。なぜダ・ヴィンチは万能の天才になり得たのか。アリストテレスなどの古代ギリシャの哲学者たちを見るとわかるが、彼らの時代の偉人たちは領域を超えた様々な仕事をこなしてきた。これは一体なぜなのかという疑問があった。

 現代の感覚で言えば、物理学者になるためには物理学を修めなくてはいけないし、その分野の専門家になることでようやく物理学者になれると思っていた。というより思わされていた。進路面談なんてまさしくそうだが、何になりたいのか、何を学ばなくてはいけないのかなどの誘導により型に抑えこまれていた。だから彼らが膨大な仕事をこなしていることに疑問を持っていた。

 だが知識の再構築を行ったことでその疑問は解消された。結論は未分節の時代である。まだ学問にも名前がない時代、職業化されていない時代。彼らは自分の好奇心を信じて物事を追求することができたのだ。デカルトの心身二元論は有名だが、デカルト座標だとかベクトルだとか広範な仕事はデカルトの好奇心・探究心の副産物に過ぎないのだ。そしてその代表的な例こそレオナルド・ダ・ヴィンチだと考えた。なぜ彼が万能の天才なのか。別に建築と科学と工学と天文と…のように極めようとしたのではなく、自分の好奇心「新しいものをつくりたい」に従ったまでだ。彼の手稿や観察を見ればそれを感じることができる。彼らは常に開拓者であり、創造者だった。

4. 幼少期からの発明的行為

 話を戻すが、問う心構えはついに私の夢であった科学をも問うことになった。では私を突き動かす好奇心・探究心は何なのか。それが発明であることに気づくのは早かった。私は何かをつくるためにあらゆものを問い続けた。逆に問いたからこそ生み出された発明もある。発明は明らかに私の生き方であった。「ないものはつくる」。単純な動機であるが、実に深いものだと感じた。(自分の行為が発明であることに気づいたのは中学生あたりである)。

 私はこのような経緯で発明へと回帰した。小学生の頃から発明家になりたいと言っていたが、芸術家へ、科学者へ、そして哲学を志すこともあったが、あらゆるものを包含する存在として発明があると感じ、再度発明家を志すことになった。

 では発明家とは何か。そもそも発明とは何なのか。発明が文明の発達に寄与してきたことは感覚的には明らかであるが、それを体系的に論じたものはないように思える。しかも発明は単なる特許制度の歴史とは異なる。私が捉えようとする発明は「無から有への転換」、そしてその核となる「想像したことの実現」である。

 私はこの発明の姿を明らかにすることで、私が取り組むべき発明を明らかにしたい。今様々なプロジェクトが動いているわけであるが、そんな中でも私が取り組むべき発明のプロジェクトとは何か。そしてそれに取り組むために何をすべきか。それを明らかにしたいのである。今当たり前のようにある物事を未分節の時代まで遡り、自由な創造性を持って再度開拓する。これが私が目指すところである。

5. これからの発明

 そしてこの発明の姿を明らかにしようとする試み、発明論の構築が不自由さを感じている人の参考になれば幸いである。「空想が現実になる世界」。仮想現実のようにサイバー空間上で夢を見させることは可能になりつつあるが、もっと世界を自由に捉えて発明しようではないか。今この瞬間空を飛びたいと思った時に空を飛べるためにはどうするべきか。3秒後に家まで移動したいという想像はいかにして可能なのか。もっと現実的にスーパーヒーローになるには科学特捜隊になるにはどうしたら良いか。地球上の飢餓の問題を解決するにはどうしたら良いか。様々な願い、夢、想像、空想が全て現実になるのだとしたら果たしてそれはどのようにして可能か。それを論じたのが発明論である。

 空想が現実になる世界にはまず発明への自覚が不可欠である。我々は何でもできる。それは単なる盲信とかではなく、私は真理として哲学の文脈に組み込みたい。そのような自覚ができた時に、私たちは全体としてもっと高度な発明がこなせるだろう。高度というのはより自由な創造性である。

 以上が私が発明論を構築しようとした理由である。発明だと思ってもいなかった発明的行為が既存のシステムへの疑いによって現象してきたことが明らかになった。このような自身の立場の自覚が新しい創造性を生み出すこともまた明らかになったのである。

 これからいくつかの章に分けて発明論を論じてみたい。窮屈で退屈な社会を離れ、新しい創造とともに自分の道を創り出す。あらゆる人の一助になれば幸いである。

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