ASKA「憲兵も王様も居ない城」レビュー ~未来に向けてみなぎる強い意欲と展望~
ASKAの節目と言えば、ASKA自身の強い意志を示す作品が必ずある。
たとえばデビュー当時の「歌いつづける」、10年目の「PRIDE」、20年目の「群れ」、30年目の「L&R」など。
いずれも、ASKA自身の現状が透けるように見えてきて、しかも、何者にも惑わされない強固な意志が感じられる。
40年目の節目でそんな楽曲を探すと、今のところ「憲兵も王様も居ない城」がふさわしい。
発売当初から「憲兵」「王様」「城」「遺書」が一体何を表しているのかが話題になっていた。
インターネット上で有力な意見が憲兵=Fellows、王様=ASKA、城=旧事務所、遺書=解散である。憲兵の中には、ファンだけでなく、昔からずっと一緒にやっているスタッフや音楽仲間も含まれているだろう。
「CHAGE&ASKA」の観点から見れば、ASKAがかつてのCHAGE&ASKA活動の場である旧事務所と決別して、ファンや昔からのスタッフ、音楽仲間とともに、険しい道のりをお洒落に歩いていこうとする姿の例えと言える。
私は、当初、憲兵がChageではないかと思っていたが、Chageが旧事務所をまだ出ていないことを考慮すると、Chageはここに描かれていないと考えるべきだろう。むしろ、楽曲全編にChageに対する心の叫びが詰まっていると言えなくもない。
ASKAは、この楽曲に「CHAGE&ASKA」と「自分」という2つの意味を持たせているそうである。
つまり主人公は、CHAGE&ASKAであり、ソロのASKAでもある。
CHAGE&ASKAも、ASKAも、旧態依然とした中で、尻すぼみになっていってはならない。
新しいCHAGE&ASKA、ASKAに生まれ変わって、新しい時代を牽引していかなければならない。
そんな未来へ向けた強い意欲と展望が感じ取れる。
この楽曲には、再出発の曲「FUKUOKA」と同様、「人生」という言葉が出てくる。
この2曲には相通じるASKAの人生観が垣間見える。
思いどおりに行かない人生を、悲観も楽観もせず、達観で昇華する。そんな人生観だ。
未来はすべてうまくいくつもりで青写真を描いてみても、実際はうまくいかないことも多い。人生はそんな繰り返し。
おそらく、ここ10年のCHAGE&ASKAとASKAは、まさにそんな状況だった。
CHAGE&ASKAは、一旦解散という形を取れず、再始動しようとすれば中止、ASKAとしての活動も、上り調子のときに一連の騒動で中断を余儀なくされた。
この楽曲に登場する「ひまわり」は、CHAGE&ASKAとASKAの象徴だろう。
常に日々見守ってくれる太陽しか、CHAGE&ASKAとASKAのすべてを理解できない。
言い換えれば、CHAGE&ASKAとASKAを理解できるのは、CHAGE&ASKA自身とASKA自身しかいないということだ。
「土の中」と表現する内面は、誰にも分からないのだ。孤独である。
BメロのあとにAメロが来て、1番が終わったのかと思いきや突如始まる迫真のメロディー。BメロのあとのAメロがサビなのか、この心の叫びのような迫真のメロディーがサビなのか。もはや判別困難で既成概念を破壊している。何せ、この楽曲には間奏が2回目の迫真のメロディーの前の1か所しかない。
「AABAサビABA間奏サビA」ととらえることもできるし、3回登場するAメロをサビに見立てて「AABサビCABサビ間奏Cサビ」ととらえることもできる。「AABACABA間奏CA」でサビはないのだと言ってしまうことだってできる。
「と、いう話さ」を彷彿とさせる実験的で独特の構成は、新しいことに挑むASKA自身の気力がみなぎっている。
これまで、ASKAへの世間の意見は、「大きな罪を犯したのだから、復帰はまず小さなライブハウスから地道に」という声が多かった。
なぜなら、それが常識だからだ。
しかし、堀江貴文の言葉を借りるなら「今の『常識』は、フィクションでしかない」。
常識なんて、過去に誰かが考え出した作りものでしかない。
だから、常識にとらわれていては、新しいことはできないのだ。
ASKAは、常識にとらわれる世間の喧騒を振りはらうかの如く、世界的なオーケストラを携えて、世界に誇れる大規模コンサートを開く。
そんな幕開けに「憲兵も王様も居ない城」は、ふさわしい。
この時期にこそ、この楽曲を出す意味がある。そう言っても過言ではない。
この楽曲から感じるのは、まさに今、新しいコンサートの幕が開こうとする瞬間の、ほとばしる熱気だ。
ASKA「憲兵も王様も居ない城」(音楽配信サイト「Weare」)
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