ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第37章
第37章 落合監督8年間の総括
落合が中日監督を務めた8年間は、私にとって奇跡のようなサプライズの連続に映った。
何せ、就任1年目に補強せずに現有戦力の10%底上げでリーグ優勝。その強さを8年間維持し続けたからである。
しかも、8年間、補強と呼べるのはタイロン・ウッズと和田一浩の獲得程度であり、それ以外は、自前の選手と安価な選手を育て上げて、常勝チームを作り上げた。
これは、FA移籍や海外移籍、大型補強が盛んになった現代では特筆に値する。
巨人や阪神、ソフトバンクなど資金力にものを言わせた補強によって1990年代以降も黄金時代を築いた例はあるが、それ以外では、野村克也がヤクルトで9年間で4度優勝したことが目立つくらいである。
落合が指揮を執った8年間の試合成績を一覧にすると下記のようになる。
2004年79勝56敗3分 優勝、日本S:3勝4敗 敗退
2005年79勝66敗1分 2位
2006年87勝54敗5分 優勝、日本S:1勝4敗 敗退
2007年78勝64敗2分 2位、CS:5勝0敗 優勝、日本S:4勝1敗 日本一
2008年71勝68敗5分 3位、CS:3勝3敗1分 第2S敗退
2009年81勝62敗1分 2位、CS:3勝4敗 第2S敗退
2010年79勝62敗3分 優勝、CS:3勝1敗 優勝、日本S:2勝4敗1分 敗退
2011年75勝59敗10分 優勝、CS:3勝2敗 優勝、日本S:3勝4敗 敗退
それぞれの年については、既に語ってきたので省略するが、1990年代以降、14年間で1回しか優勝していなかった中日を、8年間で4回優勝させた。
そして、8年間を通してすべての年でAクラスに入り、2007年から始まったクライマックスシリーズも12球団で唯一5年連続で第2ステージ進出を果たした。
どうして8年間、すべての年でAクラスに入れたか。
落合は、その回答を著書『采配』の中で、こう述べている。
「選手時代に下積みを経験し、なおかつトップに立ったことがあるから」(2011.11.17 ダイヤモンド社)
落合は、高校時代も大学時代も無名の存在だった。社会人野球で頭角を現したものの、プロ1年目はほとんど2軍で過ごす。レギュラーとして活躍するのはプロ3年目からであり、エリート選手とは異なる社会人生活、下積み生活がある。
そのため、まだプロのレベルに達していない若手選手の苦労を知り尽くしていたのだ。
そして、自らバッティング技術を研究して独自のフォームを身に着け、3度の三冠王に輝き、長年最高年俸の選手として活躍した。そして、4球団を渡り歩いて、様々な指導者を見てきたのである。
それらの豊富な人生経験から導き出したのが、豊富な練習量で鍛え上げた「投手を中心とする守りの野球」だったのである。
しかし、8年間の好成績は、落合1人の力で成し遂げることが可能だったか。
その問いに対しては、否定せざるを得ない。プロ野球は、監督1人の力で勝ち続けられるほど甘くはない。落合にとって、幸運だったのは「投手を中心とした守りの野球」を実践できる人材を最初から揃えられたことである。
それが森繁和をはじめとする経験豊かなコーチであり、谷繁捕手であり、川上・山本昌・岩瀬らの好投手であり、荒木・井端の名内野手であり、福留・英智・アレックスの名外野手だった。
指導力の高いコーチをそろえ、素質の高い選手たちを徹底的に鍛え上げることによって、チーム力を強化した。そして、豊富なコーチ陣、スカウト陣を揃えていき、体力・知力・技術力といった様々な面から強化して、安定した常勝チームを作り上げたのである。
思えば、2003年秋に3年契約で落合が中日の指揮をとることが決まったとき、私は、自分のサイトに「中日の半世紀ぶりの日本一奪回へ使命を帯びた監督」という記述を残した。
プロ野球界随一の野球理論を持つ落合なら半世紀の重い扉を開いて、中日を新しいチームへと変貌させてくれるのではないか。そう期待したからである。
落合は、3年契約の間には、日本一を達成することはできなかったが、3年間で2回のリーグ優勝、1回の2位という成績を残してそこから2年契約を結び、就任4年目の2007年にはついに中日を53年ぶりの日本一へ導いた。
そして、2009年からは、さらに3年契約を結んで、2011年には中日の球団史上で誰も成しえなかったリーグ連覇を達成した。リーグ優勝争いの渦中に中日球団が一方的に監督解任やコーチ大量解任を発表する妨害工作を乗り越えて……。
落合は、球団と再契約をする度に、球団をさらなる高みに導いたのである。
この8年間は、落合ファンであり、プロ野球ファンでもある私にとって、落合が現役選手だった頃以上の熱い想いを抱かせてくれた時間だった。それとともに、2003年までは知らなかったプロ野球の魅力と野球という競技の魅力を私に教えてくれた。さらに、プロ野球界に潜む様々な問題も浮き彫りにしてくれた。そのため、最も充実した8年間を過ごすことができたのである。
ただ、この8年間が強烈であったがゆえに、私は、その後の10年間、ただならぬ喪失感に悩まされた。
落合がファンに植え付けてしまった、ただひたすら勝利を追求し続ける野球への満足感は、落合以外の誰が監督になっても満たされなくなってしまったのだ。
落合博満のような野球選手が2度と現れないのと同じように、落合博満のような監督は、もはや2度と現れない。それを悟った10年間だった。
ファンサービスをしない落合博満が野球ファンに与えたもの。
それは、1つの目標を追求し続ける努力と、目標を具現化できる能力の結晶でしか、安定した結果を残せない、という教育だったような気がする。
そして、それが野球だけでなく、様々な学問や仕事に通じるからこそ、今でも多くの人々が監督落合を語りたくなるのだと思う。
<ひととおりの編集を追えて>
2012年に1年間かけて書いた『監督落合 8年間の軌跡』を再編集し、それがここに完結しました。
最近は毎週アップしてきましたが、再編集が終わったので、今後は不定期に記事を書いていく予定です。
この再編集に至るきっかけは、『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』鈴木忠平著(文藝春秋)が話題になっていることでした。その書籍を読むために、まずは自分がファンとして外部から見てきた監督落合博満を事前に記しておきたかった。
その目的は果たせたので、これから『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』を読もうと思います。
読んだ後、新たに書きたいことが出てきたら、そのときはまた記事にしていきたいので、よろしくお願いいたします。