特別展「家康・秀吉と成瀬正成」
7月22日から9月3日まで、当公益財団の特別展が始まった。
いつもは10月から12月に開催。しかし今年は、大河ドラマのストーリースケジュールの関係もあり、この時期になった。どうやら初代正成が初陣を果たす「小牧長久手合戦」が、8月に放映されるらしい理由もある。
今回の出展品は、財団の一級品が目白押しで、今までも出されてきたが、今回は構成にもこだわっていて、当財団の学芸員達の力の入れようがわかる展示となっている。
私が展示物の第1に見て欲しいのは、なんと言っても、犬山城の次に成瀬家が大切にしてきて、私が財団設立にこだわった「長篠合戦図」「小牧長久手合戦図」屏風の双曲だ。おそらく前半は「長篠」の本物が、後半が「小牧長久手」の本物が展示されるであろう。
合戦屏風は、国の指定物件が少ない。確か唯一重要文化財になっているのは、大阪歴史博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」の1点だけだったと記憶する。なぜかというと、実は合戦屏風の歴史が浅いことが理由だ。江戸時代、武士は平穏な日々が続いたせいで、江戸時代中期には、戦に対する闘争心が失われていた。そこでその武士の闘争心をかきたてるために、過去の合戦図を屏風として多く描かせ、その闘争心をあおたのだと言われている。だからそのため、ほとんどの合戦図屏風は、江戸時代中期に描かれているものが多いのだ。
しかし成瀬家に伝わる「成瀬本」という屏風は、江戸時代中期にかかれたものとは違うと言われている。まず古い。それからこれだけ人の動きのある合戦屏風は他にはないらしい。だから体験者が生きているうちに描かれたのではないかと思われている。それから「長篠」は、織田信長に始まり、3英傑という神格化した武将達が書かれているが、後世神格化された武将の姿は描かなくなっている。それから考えると、「小牧長久手」は、時代が遅く描かれたのか、徳川家康公のように神格化された武将は、姿が描かれず、旗印だけになっている。
「小牧長久手合戦」とは、どういう合戦だったかは、どうぞお出でになって説明を見たり、事前に調べたりいただきたい。それが歴史のロマンだと、私は信じているし、この機会に夏の自由研究にしていただきたいと思うからだ。
2番目には、黒塗の風呂セットと鎧櫃だ。これが作られたのは、安土桃山時代に流行した「高台寺蒔絵」の時代らしい。この時代の蒔絵の技術は、他に類をみないくらい高いと言われている。近年この「高台寺蒔絵」に関する評価があがっていて、この2点は「高台寺蒔絵」の展示があると、引く手あまたで忙しい。
風呂セットの話をすると、豊臣秀吉という武将は、入浴が好きだったと聞く。だから重要な合戦の時に、必ず風呂セットを持っていったと言われている。聞いたところでは「秀吉の風呂セット」は、九州の方にもあって、現在3種類あるらしい。しかし一番水にあたっていたらしい「水こし」というものは、この財団しか実物が残っていないと言われている。「水こし」という名を皆様、聞きなれないものだと思う。今思うと、汚い話になるが、昔は水が貴重だった。だから毎回新しい水では、入浴できない。そこで「水こし」の登場だ。使った水を濾して再利用したのだ。そのくらい「小牧長久手合戦」に秀吉は、風呂セットを持って行くくらい重要視し、時間をかけて勝つつもりだったということがわかる。しかし実際は、家康に軍配が上がった。でも正式には、玉虫色の決着だ。
成瀬家の目録に、この風呂セットと鎧櫃の存在は、江戸時代の文書には登場しない。それはきっと成瀬家が江戸幕府に気を使って、存在を明かしてこなかったと考えられている。でも処分はせずに持っていたのだ。バレたら大変だったはずなのに。私が見ても鎧櫃は、「高台寺蒔絵」の最高峰の品とわかるが、専門家が見ると、この風呂セットも秀吉が生きていた時代に流行した「高台寺蒔絵」だとわかるらしい。だからこれらは、県の指定物件になっていて、今は屏風より評価が高いのだ。
3番目に見ていただきたいのは「唐人笠」だ。この帽子を被った異国人を、皆様はよく見たことがあるはずだ。カステラをもたらしたオランダ人を表現する時、この帽子をかぶった外人の姿を描いている。しかしこの帽子が実際残っているのは、この財団の「唐人笠」だけらしい。そのくらいこの帽子は現存していないと言われてきた。
なぜこの「唐人笠」が残ったのか?それがなんと、徳川家康公拝領品なのだ。私が考える初代正成は、家康公の今でいう「推し」であったと思われる。だからその「推し」がくれたものを、粗末にするはずがない。何でも大切にしたはずだ。だから家康拝領品が、財団には多いのだ。そして初代の気持ちを大切にしてきたからこそ、今があると私は信じたい。何回も申し上げるが、これが私の信念だ。
先ほども書いたように、成瀬家の拝領品は、家康公からのものが多い。それは財団の所蔵品が戦国時代、安土桃山時代のものが多いということを示している。私はこれらを見ると、その時代に思いを馳せ、いつの間にか私自身、戦国の世にいるような錯覚に陥るし、閉じた瞼に映るような気がする。またこの殺伐とした時代に生きることの厳しさを感じるのだ。それがわかっていたのか、家康公は初代正成の性格を思い図って、尾張藩へ陪臣に下らせ、守ったのだと信じたい。そして犬山城は将軍秀忠公より拝領したが、初代正成は、亡くなった家康公から拝領したような気持ちだったのかもしれない。そうでなければ、約400年の長きにわたって所有にこだわり、ここまで頑張ってこれなかったと思いたい。成瀬家は犬山城が大好きだが、徳川家康公も大好きなのだ。
今回こんな思いが見れる品が、数多く展示されているので、それを皆様にはじっくり見ていただき、研究して、戦国時代や江戸時代初期に思いを老いも若きも馳せていただきたい。
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