FFⅦリメイクとジェンダー:蜜蜂の館のシーン
こちらの記事を翻訳しました。難しかったです。
きっかけは、ある外国人YoutuberがFFⅦリメイクのこのシーンを実況プレイしている時に「異性装という文化はシェイクスピアもやってるぐらい歴史が長く、この時代でますます繊細で重要なもの。そしてFFⅦは世界中の人々がプレイするであろうような超有名作品。製作者の人たちがアニヤンのあの言葉を入れてくれて本当に良かった」と涙ぐんだのを見かけたからです。
また、その動画のコメント欄で「原作の時は女の格好にされたクラウドをプレイヤーが笑っていた。今回は女装したクラウドをみんなが褒めている。良い変化だよね」と見かけたのも印象に残っています。
※筆者の英語読解力と日本語表現力はつたないですが、「とりあえず日本語で読める」状態に持っていくことに一定の価値があると信じ書きました。
ファイナルファンタジーⅦリメイクはクィアの遺産を複雑化している
ジュディ・バトラーが「ジェンダーとはオリジナルが存在しない模倣の一種である」と考えていた時、私は彼女がクラウド・ストライフのことを考えていたのだと思った。クラウドは髪を丁寧に盛っている、ファイナルファンタジーⅦの中心的主人公だ。そしてファイナルファンタジーⅦは疑いようもなく、幅広いクィアの支持を得ているゲームである。中でも作中で最も話題を呼んだ場面の一つ「蜜蜂の館でのクラウドの女装劇」はまさしくそのクリエイティブな模倣の一例であろう。
原作のシーンには根底にゲイになる事へのパニック感があることで悪名高かった。しかし1997年版のリメイクではもっと他のことが強調されていた。スクウェア・エニックスは焼き増しではなく再創造に興味があったようだ。ディレクター野村哲也氏のチームは伝統を壊し原作から離れることを時代に応じて行う意志を持っており、それは称賛に値する。かつては冷笑を誘おうとしたクィアのシーンを、それを盛大に祝うシーンへと変えたのだ。
「蜜蜂の館」での遺産は複雑化し、今では昔より議論を呼んでいる。多くの人にとって、宿屋でたくましい男がクラウドに典型的な嫌がらせをするという光景は同性嫌悪の最悪な形の比喩だ。しかし、クラウドがウォール・マーケットで駆け回り理想的な女装をすることになるという光景を楽しみ、自らのジェンダーの道を肯定することになる人もいます。「芽生えたばかり」の性的少数者にとって、主人公がクロスドレッシング(異性装)するという誇り高い行為は彼らの好奇心や想像力を刺激する。多くの人に影響を与えたゲームでは特にそうなる。このことを頭に入れ、私はたくさんのFF7ファンにこのシーンについての意見を聞いてみたい。古いシーンについても新しいシーンについても。
「PS4移植版が出てプレイし返してみて、あのシーンがどれほど問題かという事に初めて気が付いた」とオリジナルFFⅦ世代のウィリアム・ㇾモスさんは言った。彼はスクウェア・エニックスがあのシーンをどうさばくかを心配していたが、その結果を驚きつつも楽しんでいる。「とてもcampy(派手面白い)で、アニヤンは上手く描かれていた」と彼は述べた。「私のリアクションはあのシーンのエアリスと同じだよ。スクウェア・エニックスがあのシーンをクラウドの女装を茶化すんじゃなくて、楽しくしてくれたことが嬉しい」
これが大方のリアクションであることは確かだ。しかし私にはあのシーンがポテンシャルを十分に発揮できなかったように感じられる。1997年版ではクラウドは異性装を自分で選択する。エアリスがそれを提案したときに最初は動揺するものの、すぐに同意する。これはつまり、クラウドが自分で決めているという事だ。彼は服屋の主人を説得し着飾らせてもらい、ジムトレーナーからウィッグも借りる。蜜蜂の館で起こるのはメイクアップだけだった。彼はバックステージのダンサーの一人に近づいて「頼みたいことがある」と言う。「自分にもメイクをしてくれないか?」最後に関しては、クラウドはエアリスのアイデアに従うだけではなく、自分から積極的に関わっていた(プレイヤーが女装を選んでいれば)。
となると、リメイク版でクラウドから多くの選択の自由が剝がされていたのはやはり奇妙だ。パフォーマンスが始まった時、クラウドは文字通りスポットライトの中へ押し込まれる。彼は参加したいわけではなかったが、強引なキャスト達にそうさせられてしまう。煌びやかな照明と跳ねる音楽の中、彼は困惑して恥ずかしがる。オリジナル版ではクラウド自身が着飾る。リメイク版では着させられる。あまり大きな違いには見えないかもしれないが、自己表現や個の自由についての歌をバックグラウンドにクラウドが居心地悪そうにしているのを見るのはきつい。
自己を十分に見つめることが出来てない点でこのシーンは大事なものが欠けている。これは素材を活かしたものかもしれないが、必要に迫られて生まれた状況を自己発見とクィアのエンパワーメントにするのはどこか矛盾している。ダンサーたちが何を言おうと、クラウドは自分を発見するためではなくドン・コルネオの屋敷へ入るためにここにいる。だが、クラウドが自分の変身を受け入れることで新たに開いた境地もあるだろう。このシーンにはもう一つの大胆なバージョンがある。このシークエンスの最もインスピレーションに富んだ要素を自然な形にしたものだ。
蜜蜂の館の場面の新たなバージョンは、原作にはいなかったアニヤンという存在によって肉付けされている。アニヤンは蜜蜂の館の強かなオーナーで、温かさとカリスマを滲ませるダンサーでもある。彼の存在感は抜群で、このシーンの楽しさは彼の魅力に負うところが大きい。彼がクラウドをスリリングなダンスに誘うにつれて、我らが頑固なヒーローは心を開いていくようだ。マニキュアの匂いが画面越しに匂ってきそうなほど素晴らしいパフォーマンスが行われ、アニヤンは最後に詩を口にする。“True beauty is an expression of the heart. A thing without shame, to which notions of gender don’t apply.” これは感動的な感傷であり、深い意味でのクィアの感傷でもある。
だがクラウドの心には届かなかった。蜜蜂の館を出てすぐ、クラウドは通りから離れ、エアリスに背を向ける。彼女はクラウドに声をかけるが「お願いだからやめてくれ」と背を向けられたまま返答される。 “a thing without shame” とはこのことである。この場面の大きな問題点はここだ。アニヤンのジェンダーの境界を超えた自己探求のメッセージは、クラウドがそれを咀嚼した理解したりしないという失敗によって支えられている。
クラウドがウォール・マーケットをうろつく時に通行人から女だと思われるような状況に対して笑ってほしいのか、それとも真剣にクィアの解放というメッセージを伝えたいのか、このゲームは決断しきれていないようだ。後にクラウドがドン・コルネオの屋敷でティファに会って自分の衣装の華やかさを認めた時も、その口調は恨めしげだった。「最高だよな、分かってる。ありがとう。次に進もう」と言って顔をしかめてうつむく。可愛いシーンだが、もっと他のことを期待していた。
クラウドがアニヤンの言葉を理解したような描写がどこかにあっただろうか?なかったと思う。人間としてのクラウドについてこのシーンから何か学べるだろうか?見習えるものはないだろう。可愛いが、それだけだ。彼の変身は純粋にヴィジュアルだけで、もっと色んなことが出来たはずだった。ウォール・マーケットには他にもクィア要素を備えた興味深い人物がいる。性別が判別しづらいジムインストラクターのジーナンだ。彼の存在は笑いのためではなく、その個性は魅力的だ。が、懸垂以外の役割はほとんどない。
とはいえ、蜜蜂の館のシーンが多くのクィアファンから共感されたことは野村氏のチームがある程度正しいことをしたことを示している。トミー・ジョージというあるファンが沸き上がる称賛の念を話してくれた。「このシーンはFFフランチャイズ全体で最も重要な箇所で、とても上手く作られてる。クラウドはキュートに、原作のドタバタ感はそのままになっていた。物議を醸すことは少なかったと思う」。この意見は私がファンから聞いたりSNSで読んだりした多くの感想と同じだった。しかし好意的な評判は一様ではない。
「誠実な女装劇とはあまり感じられなかった」とルーペン・アクマキアンさんは言う。彼はこのシーンをとても楽しんでいる一方で、批判もしていた。「まるで年配のストレートの、シスジェンダーの人が思い描く女装劇という感じだった」。色んな良い点がありつつ、これらの言葉はこのシーンの逃げようのない現実を物語っている。フランチャイズが併せ持つ何十年ものクィアの遺産、問題のある原作のシーン、そして製作者たちのまっすぐな目線からこの現実は生まれている。
クィアに関する偉大なエッセイ「To(o) Queer The Writer: Loca, Escritora Y Chicana」の中で、チカーナのクィア理論家グロリア・アンザルドゥアは「アイデンティティとは知性、人種、性別、階級、職業、ジェンダーが集まった集合体ではない。アイデンティティとはそれら人の各側面の間に流れる。アイデンティティとは川、過程である」と言った。アニヤンがクラウドにメッセージを述べる瞬間は特に、FFⅦリメイクがそういった考えに近づいた瞬間であった。しかしシーンはすぐにそこから離れ、クラウドはこのシーンのクィア的演出を十分に受け取って、その冷淡なイメージを崩すまでには至らなかった。アニヤンの登場は終わり、クラウドは元に戻る。もしクラウドがアニヤンに会わなかったとして、何か変わったと言えるだろうか?私には分からない。
少なくともステージの上では、蜜蜂の館のダンサーたちは2020年のクィアの美学を上手く表現している。彼らのダンスパフォーマンスは「RuPaul’s Drag Race」の一部だと言われても違和感がないほどで、製作陣がリサーチの一環としてこの番組を見ていることは想像に難くない。
しかしそれはクィアのアイデンティティの表現のガワだけのものだ。クィアらしさとはそれ以上のものであり、それは回復力、自立心、そして自制心だ。それらの資質はクラウドの変身ではなく、アニヤンの魅力的なスピーチによって体現されている。
FFⅦリメイクは、クィアらしさを一瞥するだけで満足し、変わらないままにハイテクバイクバトルとドラゴンとデーモンの世界に戻っていくようだ。この世界にもクィアらしさは存在するが、ストーリーの重要の一部ではなく余興だ。残念だ。ステージの上に登らされるよりもメインキャラクターのそばに居たかった。