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獲物に感謝は必要か?

獲った獲物に感謝する。
それが美徳だとされているように私は感じている。

しかし、本当にそれは美徳だろうか?


「いただきます」
「ごちそうさまでした」

これは小学校の給食の時、いや就学前から親に教えられる食事の前後にある作法だ。

これを私は、作った人や食材になってくれた動物たちに感謝するという意味で教えられた。

私と同じように教えられた人は多いのではないだろうか。


私は狩猟を初めるまで、この作法とその意味を理解し守ってきた。

だが、狩猟を通して私の中にこんな疑問が湧いてきた。


「本当に犠牲となった動物に感謝する必要があるのだろうか?」


これだけを聞くと非道な者だと思うかもしれない。

けれど、少し待って欲しい。


犠牲となった動物たちは感謝されて何か得があるのだろうか?

死ぬ間際、殺してくる相手が「ありがとう」と感謝をしながら殺してきたら赦すのだろうか?


私は自らの手で獲物の命を断つ時にいつも感じることがある。

それは、獲物たちの死ぬ間際までの「殺さないでくれ」という気持ちだ。

仮に私が「ありがとう」と感謝をしながら獲物にナイフを突き立てたとしても、彼らは「殺さないでくれ」と訴えかけてくるだろう。

逆を言えば、「ありがとう」でもなんでもなく無感情で淡々と仕留めた場合も、同じように「殺さないでくれ」と伝えてくるはずだ。

というか、現にそうである。


では、なぜ感謝をするのだろうか?

殺される側からすれば感謝されようが謝罪されようが関係ないはずだ。

つまり、獲った獲物に対して感謝をすることや食卓に並んだ肉や魚に感謝をすることは、殺される側にとっては無意味であるということになる。


私はこう思う。
獲物への感謝は人間のエゴであると。

絶対に恨まれているはずだ。

感謝したから赦してくれるなんてことは絶対にない。

死ぬその瞬間まで抵抗し、そして命を奪った我々を恨み、憎んでいるはずだ。

それを、感謝だとか「いただきます」などで濁しているように感じてならない。

ある意味、感謝したのだから命を奪ったことに対する罪悪感を薄めようとしているように見て取れる。


私はそう感じるからこそ、それはズルいと思う。

命を頂くのであれば感謝ではなく、その恨みつらみをそのまま受け止める覚悟を持った方が良いのではないだろうか。


狩猟を通して私はそのような考えに至ったので、獲物を仕留める際に感謝などは決してしない。

恨むなら恨んでくれ。

そう思いながら今日もナイフを突き立てる。


これを読んでどう感じ、どう命と向き合うかは人それぞれで良いと考えている。

一種の価値観であり、強制できるような代物ではないからだ。

しかし、普段から行なっている「いただきます」や「命に感謝」という当たり前の事を少し疑ってみる良い機会になれば幸いである。


ちなみにだが、私は「いただきます」と「ごちそうさまでした」は毎回言う。

これは、例えば牛を育ててくれた人や精肉してくれた人、流通、加工、販売、調理など私の口に届くまでに関わってくれた「人」に対する労いや感謝を込めている。

こんな価値観もアリではないだろうか?

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