発達理論が今注目される理由-2 自分の物語を見つける
前回からの続きです。
非常に大切なテーマなので、ちょっと長くなってしまっておりますが、よければお付き合いください。
モダニズム
現在、発達理論を最先端で学んでいる人達の中でも、発達理論に関する倫理的な問い、道徳的な問いはあまり出てこないと鈴木さんは話されていました。
前回のフラットランドにもあった、現在の世界での違和感やズレの様なものはそういった倫理的、意味や価値を問わずに経済や機能的な物の見方になることが多い。
我々は、合理性という概念やモダニズムが生まれた近代以降、いつも同じ苦しみに繰り返し苛まれているのではないか?と加藤さんは仰っていました。
社会を機能的に回していくという限定的な合理性に囚われてしまっているのではないかと。
※恐らくここでのモダニズムとは、伝統的な手法や既成の権威ではなく、機械文明による現代的な新しさを常に求める流れ、近代的な機能追及的な概念をさしていると思われます。
人の苦しみ
僕はこれに全く同意で、というよりも、モダニズムが生まれるもっとずっと前から同じ苦しみを繰り返しているのではないかと思っています。
そもそも人の苦には、様々な種類があります。
日本人には馴染みのある四苦八苦という言葉は仏語で、四苦八苦の内分けは生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八苦のことを示しています。
詳しい説明はまた別の機会にするとして、フラットランドやモダニズムによる例えば地位や金銭が手に入らないという苦しみは「求不得苦」であり、当然その苦を取り除いただけでは、我々は苦から解放されることは全くないのです。
倫理的
発達を測定する世界的な研究機関であるレクティカ(Lectica)では、様々な手法で日々研究が進んでいます。
測定の1つにコンピュータを使ったアルゴリズム的なものがありますが、そのテストでは機能的なスキルや能力は非常に精度が高く(人間が採点するよりも)測定することが出来る反面、現状では倫理的な判断ができないそうです。
どんな技術・測定・学問でも、見えるものと見えないものがある。
その測定・診断・概念・学問で全てが見えていると思い込むのは、本当にリスクがあると感じます。
全てを解決するスーパー学問・スーパー理論・スーパー概念があればいいのかもしれませんが、残念ながら我々はまたそこに到達していません。
だからこそ、常に別の示唆があることを忘れてはいけないのだと思います。
rationality(ラショナリティ・合理性)
講義中に、何度も何度もrationality(合理性)という言葉が出てきます。
コンピテーショナルラショナリティ。
テクノロジカルラショナリティ。
エコノミックラショナリティ。
合理性が悪い訳ではもちろんないのですが、機能的、経済的、技術的なだけの、一辺倒になることの意味も理解していく必要がある。
生涯学習
生涯学習という言葉は、非常によく聞く言葉です。
我々人間は、常に学び成長することへの欲望を持っています。それは人生の1つのテーマともいえるでしょう。
しかし、この言葉もフラットランドの文脈での捉え方だけをされていないか?非常に狭い領域で、見られていないか?
つまり、学ばない人間は生産的でなくなり価値がなくなり、不必要となるという合理性の囚われ。
時代はどんどん進む。
テクノロジーは加速する。
勉強し続けないと市場価値は無くなりますよ。
どうやって生きていくんですか?
これは、1つの見方としては間違ってないけど、それだけが真理のように扱うのもおかしいと感じます。
その流れに乗れない人を落伍者、落ちこぼれとして扱う。
SDGsの「誰一人取り残さない」という時代の中で、実際にはこういった分断の傾向が一層強くなっているのではないか。
テクニカルなことを学ぶこと自体は全くもって素晴らしいですが、学びというものも、もっと色々な側面があるのではないでしょうか?
人間の学びとは、そんな一面的なものではないはずです。
例えばインテグラル理論の4象限から見ても、我々にどんな学びがあるか考えることは、広い視野を与えてくれるはずです。
スティグマからの解放
この記事に繰り返し登場する、発達理論とは解放を促す側面があるといえます。
今の社会の物語から逸脱した際に、居場所を失った時に、発達理論が1つの救済となる可能性がある。
これは、本当に発達理論の光の側面であり、注目される大きな要因であると思います。
機能的な価値の伸びしろの限界を感じている、その評価軸の世界での限界を感じている人達や世界の中で、自分なりの別の物語を模索している。
なんのために生まれて、なにをして生きるのか、こたえられないなんて、そんなのはいやだ。
アンパンマンの歌詞にもある通り、これは人間の1つの欲求や宿命のようなものなのでしょう。
そして、人間は自分の人生に意味付けすると、辛い環境や状況も受け入れられる力を持っています。(解釈する力)
そんな中で、自分の人生にメイクセンス(意味や価値をつける)するキッケカとなる可能性があるというのも、発達理論の大きなポテンシャルだといえるかもしれません。
陰陽
そういった意味でも、キーガンの書籍などは実存主義的な優しさを感じることが出来ることができます。
哲学的で、内面を問うような要素を多分に含んでいます。
逆に前述のレクティカなど、厳密で精緻で、サイエンスでロジカルなアプローチで発達を測定していきます。
ハーバード学派やアムステルダム学派の話があったように、発達理論にも様々なアプローチがあります。
しかし、この記事を読んでいる皆さんはお分かりのように、どちらのアプローチも大切なことです。
物事には、必ず陰陽両方の側面があります。
どちらかが欠けても、それは成立しません。
どちらかではないのです。どちらもなのです。
定量と定質、どちらも大事。両方を認識していくこと。
全てが数字や測定や経済で語ることができないのも事実。
哲学や思想だけでは、実際の成長に繋がらないのも事実。
量的な世界観・質的な世界観。
常に両面から発達理論というものを見る必要があるのです。
さて、長い記事もそろそろ締めていきます。
講義の中で、上記の様に2つ側面ををバランスよく使っていくという話がありました。
ここで1つ個人的に日頃意識していることがあります。
それは、バランスという言葉です。
バランス
バランスというと50:50というイメージが強いと思う。
バランスを取っていこうというのは、どちらかに偏りすぎない状態を目指し、維持するイメージが言葉にあります。
しかし、こういった2つの要素や側面が相まって何かを形成している際には、その2つの要素はバランスというよりは循環であり相補性的であると感感じます。
持ちつ持たれつというか、影響し合い支え合う関係性です。
だからこそ、Aという側面とBという側面の割合が、50:50が良い状態ともいえないのではないでしょうか。
その割合が人によっては90:10や40:60の人もいると思います。
しかし、支え合うならば100:0というのはありえません。
片方が存在しない限り、それは成立しないからです。
自分の特性や内面を理解し、自分の中の割合を探していくのも非常に重要なことであると思います。
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