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The BaseCamp2023 いっせーのーせ!

豊島区にある就労支援事業、Base Campの5周年イベントに参加してきた。その年月がどれだけ価値があるものか、本当のところは関係者にしかわからないのだろう。でもイベントを通して、メンバーや支援スタッフにとっていかに大事なコミュニティなのかは理解できた。

「自分にやってくる声」をテーマにしたメンバーによる演劇作品「VOICE!!!!! R.ver」を鑑賞。自分の中の他者を題材にした社会劇で、考え込んでしまった。人間の集団社会に順応しようとする自己と、生きてきた中で形成された自己の在り方が折り合わない。

メンタルな理由で電車に乗れなくなったR氏、そんな彼を批判する内なる声=VOICEは、ストレスフルな場面で出現し、余計にR氏を追い詰める。R氏はどうやって「彼ら」と折り合いをつけるのか。自分について前向きな気持ちを獲得するのか、という不安に苦しむ当事者が演じる劇だった。

心のケアに劇制作は役に立つんだろうか、創作の課程で自己や他者の観察ができるし、作品になれば、当事者も他者に近い視点でできごとを見ることができるのかもしれない。他者も当事者に近い感覚で、問題を共有できる可能性があるのか。VRなどで、コミュニケーションのトレーニングをするなど、シミュレーションを利用することはケアには有効なのか、デリケートな問題も表現として公開することで、観客を得て、複数の人が認知すること、共感を得ることが、少しは助けになるかもしれない。万人が他人の気持ちは本当に理解することはできなくて、壁の外から推測することしかできない。これは不安材料でもあり、安心材料でもある。観察している人がいること、誰かが関心を持ち続けることで、生き続ける現象はあるはずだと思う。

周囲が自分をどう見ているか、先回りして悶々とする傾向について、夏目漱石はエッセイ「硝子戸の中」で
「もし世の中に全治全能の神があるならば、私はその神に跪いて(中略)この不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹(れいろうとうてつ)な正直者に変化して、私とその人の魂がぴたりと合うような幸福を授けた給わんことを祈る」
と書いているが、他者というのは、不安で不透明で疑わしく、苦痛の元でしかないように思えることもある。内なる他者も同様、それは実は自分の隠された本心なのか、自己防衛のために生成されるアラートなのか、社会適応への意欲なのか、それともアレルギーみたいな過剰反応なのか。

いろんな人がいる、世界の感じ方はグラデーションだ。東京みたいなところでは生きられない人もいる、もっと広々とした空間に適応したDNAを持った人も。都市は人間(じんかん)が近くなりすぎだ。相互の物理的な間隔がどのくらいあるか、重要なことだ。生きる場が変われば、きっと考え方が変わるに違いない。

満員電車は嫌だが堪えている。我慢など当然なようだが、そのせいでジワジワと何かが損なわれている気がしないでもない。無意識の花園で、往復分で100本くらい心の花が枯れ果てていたり、するかも。ちょっとした調整で状況は変わるのに。というのも、コロナ禍で長期間満員電車に乗らないでいたら、辛さを避けて一本遅らせても空いてる電車に乗るようになったから、前はどうしてそうしなかったのだろう。