経験ゼロから戯曲を書くまでのこと3
ゲージュツカじゃなくても
美学校を修了してひと月、通常の仕事をしていると、ふと鼻の奥に油絵具の匂いが蘇ることがある。もうあそこには行かないんだなと、思う。他の美術をやっている人のアトリエも兼ねた部屋で授業をするので、テレピンや版画絵具の匂いがしている。美学校に漂う匂い、絵を描くわけじゃないけれど、誰かの創造の源であろう絵具の匂いの中で物を考える経験は貴重だった。
そのへんにあるアイデアを育ててみること。発芽するか、枝葉が出るか、花が咲くか、実がなるか、根っこはどうなっているのか、タネもまいていない段階から、すでに楽しくなってくる。だめならだめで違うネタを取り出してみる。繰り返し、育ててはやめたり、し続けること。創造は自分がいるこの世界への愛の顕れなのだ。雑音をミュートして恐れを知らないヘンリー・ダーガーのようにひたむきになるのだ。
独りで何もないスタジオに座っているとき、ふと感じたことがない幸福感に包まれる、ああ、なんて幸せ、まだ何もしていないけど、私は絶望していない…こういう気持ちは作品作りを試してみなければ味わえなかったし、一度感じた幸福感は、誰にも奪えない。
上演を前提に戯曲を書くと、劇世界が小さくなりがち
戯曲は空間と設定がセリフで表現されている文章表現全般を指すものだと思う。セリフで表現される言葉と音によって、何が起こり、どうなるかを観客が見守る。そこに書き手の技術が集約されていて、巷の噂話で時局を読み取るみたいに、目と耳を凝らす。究極朗読だけで上演が成立しうるものが戯曲だと思っていた。
しかしト書きの役割について考えると、そうとも言えない。セリフで伝わらない設定や環境を書けるだけ、想像が及ぶ限りめいっぱいト書きに書き込んでもいい、というのだ。先生の篠田氏は演出家なので、上演を前提に戯曲を見る、演出家は取捨選択をするので、セリフではとらえきれない作家の世界観を示して、選択肢を広げておくほうが、上演の幅も広がるらしい。
上演台本では、演出家が考えた事を含めて演者や関係者への指示が盛り込まれる。今回はここまで、という制限も出てくる。
イヌコワは演者も裏方も一人で操作しようとしていたので、最初に書いた戯曲から上演台本にシフトする時に、KとZのダイアローグをすべてやめて、中の犬とのお話だけを朗読する形にした。上演可能な形にコンパクトに編集したのだが、それでは世界が小さくなって「犬が怖い私」の個人的な世界を告白するだけの劇になる、面白くないと指摘された。ダイアローグがあることで、劇の世界を社会に開くことができて、そこが面白いポイントなのだ、という。私の頭の中では、犬が怖い話とダイアローグは刺繍の表裏みたいなもので、絵柄が出てくるコードみたいな感覚だったから、コードは見えなくていいと思ったが、観客にしてみたら裏側が面白いのかもしれない。狂言の価値は劇の中から外に出て観客と共感するところにあるのかもしれない。一人で上演する条件下で上演可能な形にコントロールすることで、世界が閉じてしまったらしい。
上演を前提に戯曲を書くと、世界が小さくなってしまいがち。現実に上演できないかもしれないことも、奇想天外でも、どんどん書いてしまっていいのが戯曲。それが上演できるかどうか考えるのは演出家の仕事。
とはいえ、今回は上演することが目的。イヌコワは書きたくて書いた戯曲というよりも、修了展で何かやるためにひねり出した。したがって、上演台本も自分で作ることになった。