タイ僧院逗留:律の実践とデジタル人文学を垣間見る
タイ僧院滞在の経緯
私が東京大学に入学したのが2022年だったのですが、その際初めて受けた仏教らしい授業が、下田正弘先生のオムニバス型の1年間続く最終講義シリーズだったのです。それは大学院科目で、入学したての学部1年生には理解し難いものでした。まず、講義で扱われている内容もそうなのですが、その内容についてそもそもなぜそこまで議論が行われているのか、意味が分からないという状態なのです。実にもやもやした感覚をもっていました。そして、そこから1年経った今でも、あの授業を思い出すと、意味が分からない状態、漠然とした不安が襲いかかってきます。その授業内容をもっとわかりやすくお書きになったものに、『仏教とエクリチュール』(東京大学出版会、2020年)というのがありますから、ぜひ参照してください。
さて、その授業の一番最初に、先生の門下生として教壇に立たれた方は(とはいっても当時はコロナ禍でしたので、オンラインでしたが)、なんとタイのある僧院で、パーリ大蔵経のデータベース化を推進されている方、ターナヴッドー先生だったのでした。このとき、私は随分興味深くお話を拝聴したものです。タイ人僧侶であって、かつて東京大学でパーリ律の研究で博士号を取得され、現在東南アジア諸国を巻き込んでパーリ三蔵のデータベース化をされている、なんとも興味がそそられるではありませんか。
このオンライン上での出会いと興味が後に私をしてタイに訪問させることになったのです。この記事では、前半にタイの僧院に至るまでの旅行の過程、そして、後半にいかにデータベース化が行われているかについて述べたいと思います。前半は旅行記、後半は少し真面目なお話になるでしょう。
台北訪問
2023年の夏、私はすでに高野山で四度加行という修行を行う予定を抱えていましたから、旅行の計画などは全くありませんでした。とはいえ、「そういえば、去年のこの頃」という形で前述の大学院科目を思い出してしまったのでした。そこで、そぞろにデータベース化の現場をみてみたいと思ってしまったのでした。いきなり思い立ちなんの計画もなしに、先生にアポイントをとりましたが、向こう側の寛容さによって、私の受け入れが決まりました。僧院には何日でも滞在してくれても結構というありがたい返信でした。とはいえ、高野山での修行が始まる前日に帰って来られるように、計画しました。
7月の末に、東京を飛び立ち、台湾に向かいました。台湾は、書道関係の道具を揃えるため、台湾にチベット仏教が広がっているという噂は耳にしていたので、実際どうなのかについて見るため、タイに行く前に経由地として選択しました。実際、台北駅でたまたま見つけたチベット人(セラ寺)の僧侶と会話する機会に恵まれました。
仏教世界としてのアジア圏、そしてその一体感を感じることになりました。
バンコク訪問
さて、台湾を経由して、タイに入国しました。最初の数日は、私は歩くのが趣味なので、バンコクの路地を歩き回り、日本では嗅がない類のあらゆる異臭、思うにドリアンから発せられるのでしょうけれども、それを嗅ぎました。また、横断歩道に信号がないというのは新鮮でした。
バンコクでもいくつかの寺院を訪ねましたが、興味深かったのは、布薩堂が寺院の中心に据えられていることです。
布薩とは、律に「半月半月」という表現があるように、満月と新月の日に僧院の全ての僧侶が集会して、波羅提木叉(比丘が守るべき決まり)に違反がないかを確認する儀式のことを言います。布薩を行なっていることが、僧伽が成立しているかいないかの条件であるといわれるように、正常な仏教教団にとって、この布薩は最も重要な活動です。
その重要性を象徴するかのように、この僧院では布薩堂が伽藍の中心になっています。私はなるほど比丘僧伽が存在しているなと実感したわけです。さらには、私がタイに訪問した日がちょうど満月の日で、僧院では布薩が行われていたのだろうと推測しています(私は布薩の現場を見損ねました)。また、ちょうど夏安居の解制の時期とあって、私が滞在したホテルではアルコール類の提供は禁止されていました。こういう点でも、タイは仏教国だなと実感しました。
アユタヤ訪問
さて、夏安居が解けた次の日に、私を受け入れてくださる僧院はアユタヤにあったのですが、その僧院の方がバンコクまで迎えにきてくださり、アユタヤを案内してくださることになりました。その僧院のお迎えの中に比丘の方が1人いらっしゃったのですが、その方の振る舞いを見ていると実に、律にのとったものだなと感じたのです。よく律に出てくる、「如法」という表現を思い出しました。
例えば、午後は固形物を一切食べてはならないというのが、出家者の決まりですから、昼食は12時以前に済ませなければなりません。そういうわけで、出家者は大体11時半くらいにはご飯を食べているのです。私たちも、その比丘の都合に合わせる形で、日本的にいえばいささか早めの昼食をいただくことになりました。
ただ、完全に午後は食事をできないわけではなく、固形物でなければいいとのことなので、ヨーグルトは認められるようなのです。以下の写真は比丘の方がヨーグルトを召し上がっているご様子です。
さて、バンコクからアユタヤへの移動が終わり、アユタヤを観光しました。アユタヤには日本人街があることで有名ですし、いくつかの有名な廃寺があります。実に古都といった雰囲気です。
以下に、特徴的な写真を載せておきましょう。
僧院に逗留
さて、アユタヤ観光が一通り終わったところで、お目当ての僧院滞在をすることになりました。ちょっとした留学の気分でした。さて、その僧院は随分辺鄙な場所にあります。アスファルトがない道を通り過ぎる必要がありました。実に修行道場は閑静な場所でなければならないようです。
僧院の中に入ると外に比べてさらに静かです。また、Cūḷapanthaka の故事に倣っているのか、僧侶たちの日課には必ずどこの国でも掃除が含まれます。そういうわけで、僧院内はさらに綺麗です。バンコクの無秩序にあっても、僧院内は裸足で歩けるほど綺麗に整えられていました。
僧院の施設を案内していただいたので、その紹介をここでも手短にしておきましょう。
まず、僧院を建立するにあたっては、律の規定に基づかなければなりません。これは釈尊存命の時代から変わっていないものです。また、日本の寺院は比丘僧伽ではありませんので、多く律の規定を破っていますが、清浄な比丘僧伽は厳格に律を守る必要があります。ですから、僧院を設計するということは、律に従った清らかな生活が送れるように空間を設計するということなのであり、僧院の状態を記述することは、実に仏教的に見て有意義な記録であろうと思うのです。
まず、ベットは以下のようです。寝る際に使う毛布の種類まで律には規定がありますし、決して豪華な寝台の上で寝てはならないとあります。このベッドは、まさにその規定に従って質素です。この硬い板の上に、毛布を敷いて寝るそうです。
さて、一通り僧院の案内が終わった頃に、夕勤行をするということでしたので、本堂へと向かいました。私は、タイの仏教の作法を全く知りませんでしたので、いろいろとお坊さんから教えてもらうことになりました。
夕勤行はパーリ語で行われます。やっぱり上座部の僧院に来たという感じがしました。パーリ語はプラークリットの一種で、古代インドの俗語です。それが仏教の記録に使われ、現在では東南アジア仏教圏での典礼言語となっています。経典も正式な文章もそれで書かれ、それを読み上げることで儀式が遂行されますから、東南アジア仏教圏の共通言語でもあるのです。紀元前5世紀の言葉が現役でまだ使われているとはなんとも感動します。
ただし、タイにおいてパーリ語の発音は訛っています。例えば、反り舌音の ṭ が普通の t 音になっていたり、b と p の区別が失われていたりします。さらには、タイ語には声調があるのですが、その声調の規則がパーリ語を発音する際にも適応されるので、パーリ語を朗読するのを聞いていると、音楽のような気分がします。
例を挙げて、タイ訛りのパーリ語を見てみましょう。例えば、世尊(仏教ではこの言葉を釈尊を指す言葉として用いる)という意味を持つ bhagavato は、文字通りバハガヴァトーと発音されるのではなく、パカワトー(pakawatō)に近い形で発音されます。ちなみに、日本の真言宗ではサンスクリット語の bhagavatī をバギャバティーと発音していますし、チベットでは、バハガバティとか発音しています。地域ごとでサンスクリット語やパーリ語の発音というのは違った形で伝承されてきたということです。なんとも興味深いことではありませんか。
さて、発音の話はさておいて、勤行で使われていた経典の内容について触れておきましょう。経典の内容は基本的に三帰依、すなわち仏法僧に対して信仰を表明するといった内容のものです。名前を挙げると、buddhānusati, buddhābhigīti, dhammānusatti, dhammābhigīti, saṅghānussati, saṅghābhigīti などです。これらはタイの僧院なら大体読み方のイントネーションも含めて共通のようです。動画共有サイト上にも多く録音があるので、聞いてみたい方は調べられるとよいでしょう。実にゆっくりとしたペースで、そして音楽的に唱えられます。
夕勤行が終わった後、瞑想に入ります。大体1時間くらいです。外は夕勤行中に暮れて、すでに暗かったです。それがまた瞑想しやすい空気感を出しています。日本で参禅しますと、足を組み替えたりというのはなかなかできる雰囲気ではありませんが、この僧院では20分に一回くらいの頻度で足を組み替えているお坊さんもいました。もちろん熟練の僧侶は身動きひとつもしていませんでしたが、若い人たちは足を組み替え、集中が切れたら上半身を少し揺さぶるような形で瞑想をしていました。瞑想の際の座法は半跏坐で、左足の上に右足を重ねるというものです。これは日本の真言宗と同じやり方ですが、禅宗だと逆になります。
瞑想の際、具体的にこれこれを観想せよと指定されるわけではありませんでしたが、この僧院は独自の観想方法を持っているようでした。正確な瞑想方法については、時間を割いて教えていただいたわけではありませんでしたので、ここでは誤りを恐れて、述べないでおきましょう。
瞑想の後、僧院長の法話がありました。タイ語だったので全くわかりませんでしたが、なんともありがたいお話だったことでしょう。そして、その際、本堂に集まった百人を超える僧侶たちに、私が日本の大学からやって来た云々と紹介していただきました。
勤行と瞑想が終わった後は、他の僧侶たちは勉強します。彼らは主にパーリ語と仏教教義を勉強することになっています。パーリ語の試験がタイには存在し、僧侶はそれによってもランクづけられてしまうのです。彼らの勉強は夜10時ごろまで続けられます。釈尊が寝ることをだらしないとおっしゃたこともあり、寝る時間を惜しんで夜遅くまで勉強に励むというのが求められることのようなのです。
彼らは晩御飯を召し上がりませんから、夜の時間は純粋に勉強に使うことができます。なんとも、正午以降に固形物を入れないという決まりは時間節約の点でも、効果的なことです。
私は、1日3食を習慣としていましたから、かなりお腹がへってしまいました。そういうわけで、僧院の在家のスタッフ(浄人というべきか)の方が近くの屋台の麺を差し入れてくださりました。ありがたいことでした。
さて、私は晩御飯をいただいた後、シャワーを浴びて就寝しました。
翌朝は、午前4時30分起床で、そこから瞑想と勤行があります。基本的に、夕勤行のときのように全員が本堂に集合しては行わず、各自がそれぞれで行うことになっているようでした。ただし、年齢の少ない僧侶については、集団で行うようで、以下の写真のようです。
そして、瞑想を終えると、托鉢に向かいます。托鉢とは、僧院周辺の道を歩いて、在家信者からの食事の布施を受けることをいいます。在家信者は、戒律を守る比丘に布施をすることで功徳を積み、出家者は布施を受けることで朝食を得るというもちつもたれつの関係があります。仏教ユートピアとしての僧院がどう社会と関わっているのかについても現場を見て考えるきっかけを得ました。
仏教の出家者はお金など財産を一切私有できませんから、お食事は在俗の人々に世話をしてもらう必要があるのです。私の滞在した僧院は、比丘の数が多いので、当番制で托鉢に行く僧侶が決められ、周囲の在家信者の経済を圧迫しないようにする配慮がありました。
さて、托鉢が終わると朝食になります。午前6時40分くらいには既に食堂に僧侶が集まってきます。そして、彼らは食べる前に、呪願を行います。呪願とは、食事を施した施主の幸福を祈る行為です。そして食べます。
東アジアの仏教とは異なり、布施を受ける限りにおいて、肉食は僧侶でも許されているのですが、殊更肉を入れることはしないようで、実にベジタリアンな感じの食事です。とはいえ、肉料理の日もありました。
食事の後、僧侶たちは掃除を行います。そして、授業があります。私もお願いして教室にもぐりをいたしました。パーリ語の授業では、例文や格の曲用などを暗記するのに歌ってしているようでした。ペンを持ってノートに書くというのではなく、本を持って歌で覚えるという感じのやり方で、初期の仏教教団もおそらくこのようであったのだろうと感じた次第です。我々はいつから紙と筆に頼るようになってしまったのでしょうか。仏典が漢訳されてしまってからでしょうか。
さて、ここまでは導入といったところです。さて、本題のデータベース化のお話はこれからです。僧院のデータベース化に携わっていらっしゃる方々には、出家者もいらっしゃれば俗人もいらっしゃり、タイ人もいらっしゃれば外国の方もいらっしゃり、実に国際的な環境でパーリ仏典がデータベース化されていました。詳しくは以下に述べましょう。
本題:データーベース化の現場取材
大蔵経をなぜデータベース化するのか
そもそもなぜ経典をデータベース化するのかという話について述べておきましょう。まず、経典は釈尊のお言葉を記述したものですが、もともとは口承(oral)によるものでした。しかし、スリランカでの結集を契機に、口伝が貝葉(葉っぱ)に書き込んで伝承されることとなりました。
貝葉写本の寿命はおよそ300年です。虫などに食われてぼろぼろになってしまう前に、写し直して次世代に伝承しなければなりません。ただし、写本の厄介な点は、この筆写の課程で写し間違いが生じたり、同じパーリ語でも別の文字を使って写したりすることがあることです。原本は同じはずではあるが、写した方の本同士を比較すると少し違うということが起こるのです。
ところで、現代において、手動で貝葉写本を写すというのはかなり時代錯誤でしょう。せっかくコンピュータが存在するならば、手で写すのではなく、それにテクストに打ち込めばよい、そういった発想が出てきて当然です。そこで、版本化が進められています。Pali Text Society のいわゆるPTS版といわれるものは、これに相当します。ただし、PTS版はシンハラ文字の貝葉写本をもとにしており、複数文字の写本を検討したものではありません。単なる版本化やテクストデータ化だけでは問題があるのです。
私が訪問した僧院、 dhammachai 僧院の目論むところは、シンハラ、ビルマ、コーム、タム文字、ランナー写本(Lanna manuscript)を含むあらゆる文字体系のパーリ語写本を東南アジア諸国からかき集め、写本それぞれの画像とテクストデータをデータベース化することにあるのです。より多様で多くの写本を比較検討することで、写し間違いとその傾向が分かってくるのです。そして、各写本の関係性を系統的に把握し、そして校訂を行い、最も正確だと思われる決定版大蔵経の出版を行う計画でいるのです。これが彼らがデータベース化を行う所以です。
さて、この画期的な計画はかなり注目を浴びています。まず、校訂といった学術的な活動、研究の基礎を作るような活動を一僧院がするというのが珍しいということがあるでしょう。さらには、さまざまな国の写本を集めるという点でも珍しいでしょう。例えば、Dr. Dipen Barua の以下の記事にも ambitious initiative といった形で紹介されています(以下の記事はこのプロジェクトをかなり簡潔にまとめていますので、一読されるのがよいでしょう)。
また、この計画、Dhammachai Tripitaka Project の公式サイトを見てみると、彼らの自負の具合がよくわかるでしょう。以下、公式サイトと現地で私が説明を受けた内容とを総合して、この計画を写真を交えて説明しましょう。
写本の収集
まず、どの国のどの僧院にどういう状態の写本が存在しているかについて地図上に整理します。そして、僧院に実際に赴き、写本を見せていただけるかについて交渉します。
もし、許可が降りたならば、写本についてのメタデータを書いてゆき、系統の整理などに役立てます。
それが終われば、写本の表面をアルコール75%で拭き、埃を取ります。
次に、写本を乾かします。写本が十分に乾いたら、ごま油に溶かした木炭を写本に塗って行きます。
ここまでの作業が、データベース化にあたって一番時間を要する箇所なのだそうです。
写本の撮影
さて、写本を綺麗にしたら、やっと撮影の工程に入ります。シャッターのあるカメラでフラッシュを焚いて撮影し、デジタルイメージファイルにします。その際、写本は裏表あるので、写本1枚につき、表1回、裏1回の計2回撮影します(よくチベットの版本だとfol 1A, 1B という形で表面をA面、裏面をB面と呼んでいます)。
以上の撮影を終えると、画像データになります。
この撮影作業は現地僧院で行うため、写本の貸し出し時間との戦いとなるようです。そのため、迅速に行わなければならないので、多人数で並行して行うそうです。最低でも2人1組で行うそうです。
オンラインデータ インプット
ここで、写本をローマ字へ翻字します(romanise)。入力の際、ASCII にない文字も unicode で指定します。そして、2人が同じ写本を翻字します。なぜなら、1人なら翻字ミスを起こしても検証できないからです。2人で翻字を行い、翻字完了後に、第三者がテクストデータを突き合わせることで、翻字ミスに気づくことができます。手動入力に伴うヒューマンエラーを減らす工夫があります。
この作業には時間がかかりますが、もしOCRなどの技術を対応させればもう少し簡単にできるかもしれないのではと思いました。
比較
さて、データのインプットが完了したところで、次には異なった写本系統に属する写本を突き合わせます(matching)。つまり、写本系統の一覧を作るのです。そして、写本間で違いがある場合、どの綴りが正しいのかについて議論していきます。ここからの作業はパーリ語能力が求められます。
校訂
異読がある場合、どちらが正しいか複数人のパーリ学者たちが議論し、文法的に正しい方を採用していきます。例えば、「如是我聞」を意味する言葉が、ある版では evaṃ me sutaṃ で、別の版では evam me sutaṃ となっていることが多々あります。確かにこれは sandhi の問題で意味の変化を文章にもたらしませんが、もちろん文法上、綴り上正しい表記を追求するのが校訂作業ですから、異なる写本系統を比較し、文法的な議論を行い、より規範的な綴りを採用していきます。
校訂を経た文章は校訂版のテクストデータの本文になります。ただし、異読が存在していた場合、異読の版本とその異読の内実を後々参照できるようにしておく準備があります。
写本をテクスト化する際に、写本に忠実に行うための約束と努力が随所に見られました。また、利用者も校訂者と同じ議論の土俵に立つことができるようにする工夫がありあました。この至れり尽くせりなデータベースを発案した人は本当に凄いと思います。尊敬の念しかありません。
決定版の出版
さて、校訂が終わった時点で、データベースとしては構築が終了しているのですが、この校訂を成果物として目に見える形で配布しようというのが出版の作業になります。
さて、以上の工程、つまりは、写本の収集、メタデータの記録、清掃、写本の撮影、ローマ字化、比較、校訂、出版という作業、この多くは地道で単調な作業ですが、その作業によって、研究者が信頼できる校訂版のテクストデータが初めて利用可能になるわけです。
私たちデジタル世代は、どの分野でもたいていデーターベースが構築され終わった状態で、その分野の研究生活に入りますので、このデータベース構築に至るまでの地道な努力を目にしたりする機会はないのが通常かもしれませんが、この努力をみるとデータベースを使えることのありがたさに改めて涙します。本当に彼らの努力と構想は壮大なのだなと尊敬の念を持つ次第なのです。このデータベースが一日でも早く完成し公開されることを祈念いたします。
この計画の詳細な情報は公式サイトを参照してください。
僧院とお別れ
以上のデータベース構築の現場を拝見し、熱心なご説明を受けました。このプロジェクトは、私の想像超え、私がデータベースに期待していること以上のことをしていました。説明の最中、常に感嘆の声を漏らしておりました。
さて、説明を受けた後、私は僧院内を散歩する機会に恵まれました。以下に特徴的な写真を載せておきましょう。
データベースの構築を行なっている僧院、僧侶が勉強熱心な僧院、心温まる同年代とも出会うことのできた僧院でしたが、当初の計画に従い、データベース構築の現場を見納めたため、ここを去り帰国することにしました。僧院の方には空港まで送っていただきました。
お世話してくださった方々、本当にありがとうございました。
帰国
さて、バンコクの空港を後にし、大阪の関西国際空港に着きました。そこから、幾人かの大阪の友人に会ったのちに、高野山へ向けて行くことになります。
当初の計画通り、タイの僧院から帰国した後に、今度私が高野山に行き、出家して僧院生活に送る番になったのです。この高野山でのお話はまた稿を改めていたすことにしましょう。では、また。
2023年10月2日
乾 将崇。
(注: この記録は、僧院訪問から2ヶ月後に書いているので、記憶に誤りがあるかもしれません。誤りや疑問がありましたら、指摘してくださると幸いです)
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