チベット僧院留学中間報告: 〈根拠地〉と真理の地域的側面 講演会発表原稿@チベットハウス
これは、2025年1月19日午後3時半よりチベット政府の事実上の大使館であるチベットハウス(東京都新宿区)においてなされた講演会の発表原稿である。なお実際の発表はこの通りではない。
本講演会は法話会ではない。チベット仏教とチベットの社会がこの世紀にどのような光を投げかけているのかを示すものである。
本講演会には、大学教授、チベット研究者、翻訳者、宗教者、一般学生、社会人など46名を超える参加を賜った。個人的には同年代の大学生の参加があったこと、参加者との対話ができたことをとても嬉しく思っている。
実際のチベット留学の体験について、具体的な話をもう少し聞きたかったという参加者からの声が聞かれた。具体的な話については、
「サンボのチベット僧院留学中間報告書」(『仏教文化』第63号、東京大学仏教青年会、2025年)
に詳しく書いたため、ネット上で入手を検討してほしい。あるいは、原稿をお送りすることも可能であるので、発表者のメールを送ってほしい。
加えて本公演は、チベット亡命政府のウェブサイトにも取り上げられた。
序文
ད་རིང་ཉི་ཧོང་བོད་ཁང་ནང་ངའི་བཀའ་མོལ་ཞུ་བའི་གོ་སྐབས་གནང་བར་བོད་གཞུང་གི་ཉི་ཧོང་སྐུ་ཚབ་དོན་གཅོད་རྒན་ཨརྱ་ཚེ་དབང་རྒྱལ་པོ་མཆོག་དང་ལས་ཁུངས་ཀྱི་ལས་བྱེད་རྣམ་པ་ཚོ་ལ་ཐོག་མར་འཚམས་འདྲིའི་ཐུགས་རྗེ་ཆེ་ཞུ་བ་དང་། ཕྱི་ལོ་༢༠༢༥ ཟླ་༡ ཚེས་༧ ཉིན་བོད་གཞིས་ཀ་རྩེ་ལ་ས་ཡོམ་བརྒྱབ་པར་གདུང་སེམས་མཉམ་བསྐྱེད་ཞུ་བཞིན་ཡོད།
ལོ་གཅིག་གོང་ལ་ང་ཚོ་ཉི་ཧོང་གི་ནོ་ཏོ་(Noto)་ལ་ས་ཡོམ་བརྒྱབ་པའི་སྐབས་སུ་ ༧གོངས་ས་སྐྱབས་མགོན་ཆེན་པོ་མཆོག་གིས་བོད་སྐད་དུ་ཤེས་རབ་སྙིང་པོ་ཞལ་འདོན་གནང་བ་ནང་བཞིན། སྐབས་འདིར་ང་ཚོ་ཉི་ཧོང་བ་ཡང་ཉི་ཧོང་སྐད་དུ་ཤེས་རབ་སྙིང་པོ་ཁ་འདོན་བྱས་ནས་བོད་མིའི་བར་ཆད་ཞི་བར་སྨོན་ལམ་ཞུ་བཞིན་ཡོད། འདིའི་རྗེས་ལ་ནང་དོན་མགོ་ཚུགས་ཀྱིན་ཡིན།།
(本日、日本チベットハウスにおいて講演をいたします機会を賜りましたこと、チベット政府の日本代表部アリヤ・ツェワン・ギェルポ先生と事務所職員の皆様に感謝を申し上げますとともに、西暦2025年1月7日にチベットのシンガツェにおいて地震が起こりましたことにともに心を痛めております。
一年前に私たち日本の能登で地震が起こった際に、 ༧法王倪下がチベット語で般若心経の読誦を行われたように、この機会に私たち日本人もまた日本語で般若心経の読誦を行なって、チベット人の逆縁が鎮まるよう祈願いたします。その後で内容を始めます。)
第一部 末法と従事
སྙིགས་མའི་དུས་འདིར།།
この濁世において
チベット仏教において傑出した学僧であり、ゲルク派の創始者である、ジェ・ツォンカパを讃える韻文で最もよく唱えられるのは、『兜率天百尊(dga' ldan lha rgya ma)』である。その第9偈は以下の通りである。
snyigs ma'i dus という形で、この現在の時間を濁世と捉えるのは、このジェ・ツォンカパの時代がすでに末法の時代であったからであろう。仏教的な世界観に基づくならば、世界は、道徳的にも、構造的にも、そもそもほろびに向かっているとされる。
サンスクリット語において空間的な広がりを示す言葉、 loka- に相当するチベット語は、'jig rten が与えられることが多い。少なくとも Mahāvyutpattiはそのような訳語を定めている。Mahāvyutpatti は同時時に、lujyata iti lokaḥ(壊されたものとよばれるので、世界である)と説明する。
√lujと組み合わせてlokaを説明するnirvacana、すなわちこじつけ的語源解釈が存在する。
ここで登場する√lujは、Monier-Williams Sanskrit-English Dictionaryには項目すらない。
とはいえ、PTSのPali-English Dicitonaryによるならば、lujjatiの項目があり、rujのサンスクリットのrujyateに相当することを示している。そして、その意味について、vināsa(vināśa, 滅亡)を挙げている。パーリの伝統においても、Cūḷaniddesaに、lujjati kho loko ti vuccati(世界は実に滅びると言われている)という説明が見られる。
同時に、Edgerton Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionaryは、lujyateについてrujyateのMiddle Indicの形と述べている。√rujは、滅びるという意味があり、これはチベット訳の'jig paとも意味上の整合性がとれる。
とはいえ、インドのある文法家はlokaのniruktaに√lok(見る)を想定している。lokaという言葉が本来の語源というのは大して分からない。
しかし、仏教的に、このabhidharmaの文章は、√rujを想定する。滅ぼされているもの、それが世界なのである。
「世間」という漢語からはおよそ理解できない終末観がこの言葉、'jig rten、すなわち滅びるものに依拠しているという見出すことができよう。
『兜率天百尊(dga' ldan lha rgya ma)』の作者である、ジェ・ツォンカパの直弟子、そしてのちにギュメ密教学堂の管長にもなるドゥルナクパ(dul nag pa dpal ldan bzang po)は、そのような言語環境にあって、滅びゆく世界観を強く持っていたかもしれない。
いずれにせよ、このほろびゆく世界にあって、私たちは生まれてきた意味を仏教の実践、成仏への歩みという形でまっとうすることが望まれている。
それはあくまで個人的な課題であって、ほろびる世界であるから、それに合わせる仕方での世界への engagement、従事を求めることはしない。むしろ偈文にあるように、mang tshos sgrub la brtson の方向性をよしとするのである。
སྙིགས་མའི་དུས་ཀྱི་ལྟ་ཚུལ་བཞན་པ།།
濁世の別の見方
他方、キリスト教に見られる終末論、それは最も広義にはラテン語で、Eschatologiaと呼ばれるものであるが、その中に、Apocalypsinと呼ばれるより差し迫った終末に対する時間感覚が存在する。
Eschatologiaと呼ばれる概念は、仏教的な時間発想、すなわち無始無終の時間がだらしなく続いていくという発想、そしてその中で生じ、持続し、滅び、そして無となり、再び生じるという仕方で説明される世界観とは大きく異なる。
中世ヨーロッパの歴史学者Guy Lobrichonは、2020年の Making Ends Meet: Western Eschatologies, or the Future of a Society (9th–12th Centuries). Addition of Individual Projects, or Collective Construction of a Radiant Daw において、Eschatologiaはさまざまに中世の政治に影響を与えてきたと説明する。
特に、Eschatologiaは、我々が終末、時の終わりと聞いて震え上がる感覚とは別に、あらゆる人間的で混乱的な機構が終焉を迎え、神の意志によって再構築されていくといった望まれた感覚をもって理解されていたと述べる。
さらに、彼はこのEschatologiaが現実となるときに、一体誰がこの秩序を、どのような仕方で到来させることができるのか、あるいはできないのかという極めて現実的な問いが中世において共有されていたことを指摘する。
とはいえ、こういう差し迫った事態としての終末論、すなわち、1100年をひとつの終末地点として規定するようなApocalypse的な語りは、十字軍運動を支えたが、1100年を経てしまえば、何の意味も持たなくなる。
Guy Lobrichonは以下のように述べる。
確かに以前のような緊迫した、そして社会的、政治的なengagementを促進するような意味を、この「終末」後の語りは持たない。
とはいえ、以上のような知的態度は決して、終末論的世界観を観念的なものとはしていない。1100年以降多く見られるようになった、いわばRealised Eschatology的な立場、すなわち終末はすでに到来しているという立場を要請するからである。
それはとても内省的に、自身の日々を悪魔との戦いとして理解するものである。そして、そのことは、結果的に先に述べた仏教的な mang tshos sgrub la brtson の方向性と重なるようでもある。
キリスト教のEschatologiaは、混乱にあっては、時間的な終末を意識させる時代背景にあっては、政治的、社会的なengagementを要請する仕方で現れていたものの、一度予期された「終末」を迎えてしまえば、仏教者が伝統的に抱きもしたような内的な方向性へと mang tshos sgrub la brtson へと向かっていく。
བླུན་པའི་བསམ་བློ་ལས་བྲལ་བའི་དགོས་པ།།
カルト的「浅はかさ」からの距離
先に述べたRealised EschatologyのようなEschatologiaの穏健的なあり方は、すでに新約聖書に見られる。むしろこの慎重な態度、時の終わりへの慎重な態度こそが、原初的な姿勢であったかもしれない。
Vulgata版のマルコの福音書は以下の通りイエスの言葉を引用する。
ここでは、dies, dieiすなわち日あるいは val、hora, horaeについて nemo scit 誰も知らないscio, scireことを述べている。ただし、nisi Pater、すなわち父を除いては。ここに、父への信頼といわば私たちが計り知ることができないといった少しばかりの諦念が感じられる。
弥陀仏の第18願、あるいは浄土真宗的な「不可思議」概念や蓮如が「御恩報尽の念仏と心得べきなり」と御文章で伝えた内容に近しいものがある。
他には、マタイの福音書もgeneratio mala et adulteraはsignumを求めるとしている。彼はsignumを自身で探すように求め、それを教えはしない。
キリストが、generatio mala et adultera signum quaerit という形で、精神的に mala 病んでいて、宗教的に adultera 不誠実であるような世代こそ、signum(acc.sg.nt.)、見えやすい徴を quaero, quaerere すなわち、求める、尋ねる、探していることを指摘している。
ここにおけるgeneratioに関わる理解としては、Glossa ordinaria(標準注釈)によると次のように解釈されている。
ここでは、spiritualis intellectusに代わって、carnalis intellectusが生じている世代としてgeneratioを捉えている。肉体的な、世俗的な、人間的な感性に基づくそういった知的態度についての批判が込められていよう。そして、そういった人間的な感性が横行する時代こそが、signumを求めやすいのであろう。
また、signumについて、それは今日私たちが、signumとして日常的に理解している兆候とは異なる解釈を、Glossa ordinariaは示している。特に興味深いのは第二余白注釈である。
ここで述べられているsignum、ここでは複数形のsignaとなっているにせよ、このsignaは、adventusのあるいは、passioに関わるsignaとして理解されてている。そして、そういった宗教的なsignumが、roseum celum vespere(夕方のabl.バラ色の空)にsimilisであることを述べる。
バラ色の空はいつでも見れそうなものでもある。そこには、時代性を感じさせるsignumはない。そこには、あらゆるものを契機として信仰へと向かう態度が感じられる。
རབ་ཏུ་རྣམ་པར་འཇིག་པ(་विप्रलोप:)དང་དུས་ཀྱི་རྟགས་རྣམས་(signa temporum)།།
末法(་विप्रलोप:)と時のしるしたち(signa temporum)
さて、永承7年、すなわち1052年は、日本に「末法」とされる時代の始まりを告げた。その年代設定には疑問が拭えないとはいえ、藤原実資は『小右記』において「近日強盗貴処を憚らず、末代と謂うべし」と言及し、いわば到来するものとしての「末法」意識をもち、そして、signumをはっきりと見出していた。
そういった、Realising Eschatology的発想はしかし、generatio mala et adulteraそのものを暗示しよう。
末法が始まって200年が経った時に生じた親鸞がしようとしたことは、そういったsignumはsignumとしておいておき、neque angeli in caelo, neque Filius, nisi Paterといったいわばキリスト的謙虚さで、あるいは、spiritualis intellectus的な態度で、この現状を信仰への手掛かりとすることであっただろう。そういった点で、Realised Eschatology的発想に近しい。
親鸞は、『教行信証』において以下のように述べる。
この濁世の問題をどちらかといえば、kalpa的な問題と捉え社会的なengagementを促すのではなく、sattva的な問題と捉え、衆生自身がいかに成就することができるかに注目している。
日本の末法の政治的な展開においても、あるいはヨーロッパの差し迫った終末論あるいはApocalypse的な語りにおいても、当初は政治的なengagementを宗教がもたらすことにはなったが、宗教者はその内省的な態度によって、Realised Eschatology的発想、あるいは「御恩報尽の念仏」として宗教内の語りへと押しとどめて行った。
宗教の持つこういった社会との距離、signumを見つけ出して、それを騒ぐといった人の浅はかさからの距離は十分に理解する必要がある。
十分に理解しないとき、我々は再び20世紀末に日本やアメリカ、世界各地で確認された宗教カルトを産むだろう。それはまさに後退(regression)であるとしかいいようがない。
第二部 非宗教的な従事
བརྩེ་བ་དང་སྙིང་རྗེ་ཡོད་ན་ཆོས་ལུགས་མ་དད་ན་ཆོག །
従事は非宗教的に達成される
ドゥルナクパ(dul nag pa dpal ldan bzang po)のmang tshos sgrub la brtsonの方向性、蓮如の「御恩報尽の念仏」の方向性、そしてRealised Eschatologyの方向性は、signumに対する慎重な態度である。
これらの立場は、社会的な衰退は衰退として受け取りながら、そこにおいて我々ができることは善をなすことであるという内省的な活動を促している。
もし、ほろびの中で、社会へのあるいは時代への関わりが宗教的に達成されるとするならば、それは決して20世紀末のカルト宗教がしたようにではなく、内省的な活動、祈りや黙想といったものであるかもしれない。
とはいえ、今日の社会はengagementをやはり求める。祈りは、engagementでありうるが、より実効的な手段を取りたいと願う人も少なくない。
ここで、従事という言葉、それはフランス語のengagementの訳語としてここでは使っているが、当のengagementを今世紀において有名にしたサルトルの言葉をここで確認しておく。
ここで、サルトルはフロベールやゴンクールといったコミューンが起こったときの文筆家を名指しして、彼らがそれを妨げなかったこと(empêcher)を非難している。フロベールやゴンクールには同時代(son époque)への責任があるとしている。
そして、フロベールやゴンクールの仕事は文学であって、政治的な問題ではないという反論(Ce n’était pas leur affaire, dira-t-on.)について、ではカラス事件においてその冤罪を指摘する運動を行ったボル テールは彼の文筆家としての仕事とどう関わるのかと問う。
彼は文筆家の仕事とは関係なしに、単に同時代にいるからという理由で、その運動へと乗り出していく。そしてその運動が時代にとって、そして彼にとって必要なものであった。この時期に、彼が『寛容論』Traité sur la toléranceを著したことは知られている。
今日、世界的な課題に多くの人が当事者として関わっており、したがって、立場に関係なく、あらゆる課題に従事するよう招かれている。
では宗教に関わる人もそうなのか?しかし、実効的な手段となったとき、そこに宗教の語りが、signum的な敏感さが加わったとき、その活動はカルトへと豹変するであろう。そのことは、すでに指摘した通りである。
したがって、我々は非宗教的に社会的に実効的な手段を行わなければならない。
このことについて、チベット仏教の宗教指導者であるrgyal ba rin po che、ダライ・ラマ14世は示唆的な発言をおこなっている。
ダライ・ラマ14世は今世紀の課題を解決するにあたって、brtse baとsnying rjeが大切であるということは何度も強調している。さらには、そのことは医学的にも怒ってばっかりの人よりも慈悲心がある人の方が健康であるといった証拠があることを示して、宗教とは別の文脈で慈悲心の大切さを説いている。
ནང་པའི་ཚན་རིག་དང་ནུབ་ཕྱོགས་ཀྱི་ཚན་རིག་གཉིས་ཀྱི་འབྲེལ་བ།།
仏教科学と西洋科学との関わり
以上に見たように、ダライ・ラマ14世がengagementとして行なっていることは、人間にとって共通に重要な精神的な部分を、宗教と切り離して伝えることである。そして、その精神性を解き明かしていくことが、彼にとってのengagementであるとも言えようか。
このような心の科学としての方向性、あるいは内省的な科学としての方向性は、nang pa'i tsan rigという今日のチベット語造語にも明らかであろう。
旧ダライ・ラマ政庁であった兜率宮殿(dga' ldan pho brang)は、複数の善知識(dge bshes)を集めて、2014年に nang pa'i tshan rig dang lta grub kun btus、すなわち『仏教科学と哲学の集論』の記念すべき第1巻をダラムサラ(rda sa, dha sa)で出版した。
チベット人僧侶の多くはこれをkun btus、すなわち集論と呼ぶ。kun btusはいくつもあるにも関わらず、kun btusといえばこれを指すことが明らかであるほど、信頼が置かれているチベット語圏の仏教概説書である。
内省的な科学、すなわちnang pa'i tshan rigは伝統的な僧院教育システムにおいてblo rigとして学ばれてきた内容をインド原典に遡って典拠を求める形で執筆されたものである。内容はある意味では伝統的である。
とはいえ叙述形式からして、西洋の研究者のスタイルを取り入れており、さらにタイトルに、nang pa'i tshan rigという形で「科学」という言葉を用いたこと自体が挑戦的であり、ダライ・ラマ14世が提唱する非宗教的なengagementを象徴しよう。
ダライ・ラマ14世はその前書きにおいて以下のように述べる。
このような仏教を科学として取らえていく発想は、アメリカにおいても受け入れられている。ダライ・ラマ14世は、1987年エモリー大学(Emory University)宗教学教授のJohn Fentonによる招待を受け、アメリカ・アトランタ州のエモリー大学で講演を行った。
その後、1998年、ダライ・ラマ14世の科学としての仏教と西洋の今日的な科学との架け橋が重要であるとの考えを受け、同大学にEmory-Tibet Science Initiative、すなわちエモリーチベット科学機構が誕生した。
Emory-Tibet Science Initiativeは、僧院における科学の教科書を執筆している。
今日、僧院においても科学教育がなされている。ギュメ学堂の場合、それは新中観学級(dbu ma gsar ba)などにおいて行われる。
Emory-Tibet Science IntiativeのWeb Siteにはこの目標を以下のように設定している旨が書かれている。
この見解の興味深い箇所は、現在の科学とチベットの仏教を二つの補完的な知識体系(two complementary systems of knowledge)として定めているところである。そして、それらの共同が実りあることへの信頼が感じられる。
そしてその架け橋のもと人間の精神性(spirituality)について何がしかの貢献をしようと将来を見据えているようである。これは宗教を学ぶ者、あるいは宗教者が今日においてなしうるengagementの一例ではなかろうか。
དེང་དུས་ཀྱི་རྡ་སའི་བོད་མིའི་ཤེས་ཡོན།།
現代のダラムサラのチベット人の教育
以上に見たエモリー大学における一連の研究はSEE Learingという形でチベット人の小学生に提供されている。
SEE Learningとは、Social, Emotional and Ethical Learningの略であり、社会性、情動性、倫理性を身につける内容である。
ダラムサラにおいてチベット子供村、bod phrug khyim sdeとして知られる幼稚園から高校までの寄宿制学校においては、教科書を使用しない。彼らの実践において、SEE Learningとはチベット人が代々継承してきた教育であるとする。週に1度の頻度で行われる。
以下は、SEE Learningについて書かれた表である。チベット語と英語で感情を名指す言葉が書かれている。感情を説明し、それに対処していくという、abhidharma的な法の立て方、あるいはblo rig的な議論を感じずにはいられない。
またそれと同時に、これらが現代的にチャートにされることによって、これが現代において意味づけられていることも見てとれる。これにエモリー大学のチームが関わっていることを思うと、チベット仏教の世界と現代の科学や心理学の世界との橋渡しはどうにかこうにかうまくいっているようにも思われる。
チベット子供村、bod phrug khyim sdeの興味深いのは、そのチベット名から明らかであるよう幼稚園児は、khyim tshangすなわち、寮ではなく、家に住むのである。そして、そこでは業の家族(las kyi nang mi)と呼ばれる擬似家族を構成する。そして家庭的な教育を受ける。
以下の写真は、幼稚園児のクラスの写真である。幼稚園児は特に決まったカリキュラムがあるわけではない。それぞれに好きなことをして過ごす。もちろんそれにはおばあさんというべき先生がついてくれる。
以下の写真では、絵を描写するに適当なチベット文字を並べて文章を作るものである。この文章は、nga la lag pa yod/ すなわち、「私には手がある」と読めるだろう。
文法的にも綴りにも問題のないチベット語だ。綴りを間違えることの多いチベット人ではあるが、この幼稚園教育においては、5歳児でもスペルミスなくチベット語を書くことを可能にしている。
SEE Learningの文脈で興味深ったのは、そのnga la lag pa yod/という文章をある幼稚園児が作ったときに、先生が「手は何をするためにあるの?人を押し退けるためかしら?」と問うたことである。
幼稚園児は「違う。人を助けるためだ(ma red/ rogs pa byed yag ched du red/)」と答えたのだ。私はここにbdag las bzhan gces(私より他者を重視せよ)を校訓とするこのbod phrug khyim sdeの理念が、そしてSEE Learningの効果が存分に5歳児においても発揮されていると感じた。
チベット人は1950年代にその祖国の独立を失い、世界に離散している。その中で独自の文化を伝える試みがなされていた。そのうちの一つが、自身の文化固有に思われていたものを、西洋のより今日の社会において「普遍的」とされている科学の言葉でもう一度捉え直し、それを子供達に伝えていこうとしていることだ。
この試みは徒に自身の文化的な独自性を強調し固定化し、他と断絶を生み出すのではなく、他へと開いていくこと、他に影響を及ぼし合うその間において、自身の民族性を立ちらわしていくといったとても動的な動きであろう。
第三部 根拠地における再現性
སའི་དབང་གིས་བྱུང་བ།།
根拠地的な重み
以上の非宗教的なengagement、そして、固有と思われていたものをいささか強引な仕方であるにせよ開いていく方向性は、チベット人社会と文化保持を考えた上で、とても重要なものとも思われる。
とはいえ、そういった普遍性に開けない、しかしある場所で繰り返し実践されることが重要であるような実践が存在する。そして、そういった実践は地の力、場の力によって支えられ、その場を離れて移植しにくいものでありうる。
今日亡命チベット人社会を彩る二つの方向性がここに出揃った。第一は、開かれた、engagementの方向性、もう一つは、宗教的な方向性である。そして、後者の宗教性はこの社会のほろびについて、先に見たように、自身の信仰を強くする契機として見るのみで、社会的なsignumを見出すことはない。
今からはよりチベット独特と思われる営みについて、チベット人が使う言い回しをすればthung mongs ma yin paな側面について、述べよう。
大江健三郎さんは、その小説『懐かしい年への手紙』において「根拠地」という言葉を使っている。
ギー兄さん、彼は大江さんにとっての師匠的な人格を集めたような人として設定されているが、そのギー兄さんが、東京にデモに行った際に傷を負い、さらには自分が孤立無援であることに気づく。そこで彼は自分に根拠を、raison d'êtreを与えてくれるような土地を建設しようとした。
ギー兄さんは、それを「根拠地」と呼び、最終的に「美しい村」と呼ばれることになっていく。
ここでその「根拠地」について、その独自な偏狭な側面と、より広い側面について述べたい。そして、それは現行の仏教の複数の僧院伝統を理解する上でとても重要な視点を提供するだろう。
その前に、大江健三郎さんの意図とは少し離れてしまうのではあるにせよ、「根拠地」を私なりに定義し直したい。すなわち「根拠地」とは真なることを規定する土地の力であるとしたい。また、根拠地により規定される真理、「根拠地」的真理は、真理の地域的な側面を示す。
「根拠地」的真理は、相対主義とは区別される。というのも、相対主義は個人的な信条の問題である。根拠地は共同の真理観であって、共同幻想といっても差し支えない。根拠地における会話にはやはり一つの真理が存在している。それはまるで宗教コミューンのようである。
「根拠地」における経験と知識は、「根拠地」の他の場所では役に立たない。「根拠地」における真理と真理の表現の根拠は、その土地に根ざしているからである。もし任意の「根拠地」で学んだものが、別の「根拠地」に行った場合、あたかも自分の知識が封印されているように感じるだろう。
私がチベットという「根拠地」で学んだことは、日本という「根拠地」によって封印されてしまう。海外銀行の預金引き出しが日本でできないことに類似する。
私は日本の高野山で一通りの基本的な修行、四度加行を終え、チベットに渡った。しかし、チベットでは自分の密教的な知識は封じられる。チベットから帰ってきたとき、僧院で行われていた問答(rtags gsal)の技術は封じられる。そのような「根拠地」移動に伴う「封印」によって、無気力を随分と感じたものだ。
同じ仏教であるにもかかわらず、その実践の実態はほとんど異なるといってもよい。そういった違いを地域的な差異に還元させる仕方で語ろうとしていた。これがいわば根拠地に関する偏狭な側面である。
以上の事情を2024年11月14日早朝に、ある先生に私が送信したメールは物語っている。
このメールに付け加えて、私は2024年11月14日晩に以下の通りメールを送信している。そして、ここでは明らかに根拠地に対するより開かれた側面を示している。
ここで、私が見出していたことは、根拠地内において見出される通時的循環性、あるいは野村正二郎さんが彼の2000年代初頭のツォンカパの空思想をめぐる複数の論文で問題提起している「再現性」に関わる問題意識であった。
野村正二郎さんが「再現性」として問題化している事柄は、もちろん思想史的なアプローチを排除するという意味があっただろう。とはいえ、この問題化の根底には、あくまでも私の理解ではあるが、今仏が在世であれば、何をなさっているかという問いではないか、その問いに深く関わるのではないのかと考える。
「再現性」は仏が仮に今にましましても、同じ法を説いたであろうとの結論を帰結する。あらゆる時代にあって同じ法が説かれるのである。この考えは仏の活動(phrin las, karman)が一味(ro gcig, ekarasa)であることに基づく。
そして、仏の説法が仮にネット上で視聴可能であったとしても、彼の所化('dul bya)となるものは、かつての紀元前5, 6世紀と変わらず、おそらく限られていただろう。そういった意味での限定性は付きまとうだろう。もちろん全ての衆生に慈悲が注がれているとはいえ。
すなわち、ここで「根拠地」の議論を再度まとめると、「根拠地」とは、ある範囲、それが土地であるとは限らない、において時間を超越して繰り返される活動を可能とする装置といえよう。もちろん、そこには地理的な、あるいは何かしらの領域的な限定がある。
第四部 根拠地をつなぐ
འཇིག་རྟེན་མིག་(लोकचक्षुस्)ཞེས་བྱ་བ་ནི་གང་ཡིན་པ།།
世間眼とは何であるか
「根拠地」の力が同じ時代の他の場所に伝わるとき、最初はその雰囲気が大きいかもしれない。チベットという言葉を聞いたとき、何かしら心惹かれるものがある。
とはいえ、ある時点を越えると、そういった習慣に対する興味はそのまま、言語や思想に対する興味へと移る。「根拠地」の力が同じ時代の他の場所に伝わるとき、別の言葉で書かれている事柄の別の言葉での定位が本質的な問題となる。どこに言葉を置くのかという問題となろう。それは単に翻訳ということではない。
「根拠地」の移植はとても難しい。しかし、不可能ではない。もし不可能ならば、思想伝達などあり得なかっただろう。しかし、可能であるにせよとても難しい。今日問題になっているcultural appropriationは、「根拠地」の移動に問題にある。「根拠地」を出て別の「根拠地」へと思考を置くこと、もしくは「根拠地」そのものを移植するという大きな仕事である。
仏典翻訳の本質は、ある言葉からある言葉への思想の移行ではない。ある言葉で示される言葉の意味をを標的言語(target language)において存在する言葉の何に付与するか、置き定めて行くのかに関わる。
そして、その起き定められたところの文脈は、標的言語(target language)に変容を起こす。その言語的な変容こそが、仏教に相応しい根拠地を作る、根拠地が転移することに等しいのである。
そういった営みは極めて思想理解に関わる本質的な営みであり、単なる翻訳ではない。そういった翻訳者の責任の重さを理解した上で、チベット人は翻訳者を lo tsā baと呼んできた。確かに今日、skad gyurという単語があるにせよ、ダライ・ラマ14世は説法会の通訳者をlo tsā ba tsho(翻訳者たち)という形で呼ぶ。
lo tsā baは、純粋なチベット語ではない。これはサンスクリット語のlokacakṣusに由来するとされる。lokaは先に√lujで検討したように世間である。cakṣusとは眼である。
lokacakṣusはサンスクリットにおいてもチベット語においても、美文学、snyan ngag, kāvyaの文脈において、nyi ma, ādityaを示す。確かに世間を照らす眼は、太陽である。
仏教的に、lokacakṣusは仏を指す。
チベット人がこのような明るい、尊い言葉であるlokacakṣusに由来する形でlo tsā baという言葉を作ったのはとても仏典翻訳が持つ力を理解していたものと思われる。
今日の研究者の翻訳はとても言語的な操作、構成的な虚構、prjñapti, btags pa的なものとして流通している。ある単語にある単語を、ある集合的なものにある名称を対応させるということ以上に、何もそれは意味しない。
したがって、翻訳者はかつてほどlo tsā baであることを自覚していない。いかに自分の翻訳が現状の社会を照らすかについてはナイーブである。それどころか、社会とはいわゆる距離をとる厭世的な仏教の世界観がそれを後押しているようにおもおもれる。
とはいえ、法学における翻訳事情はtha snyadあるいはbtags pa的な事態ではない。具体的な事象へと関わり続けようとしている。
Silvia Marinoさんによる" Introduction: The Role of the Language in EU Law"という論稿は、そのような事情を端的に説明している。
EUの法律は24の公用語で書かれる。そして、それぞれは翻訳ではなく、それぞれが公式なヴァージョンである。したがって、どれかの言語のヴァージョンが特権的な地位を保っており、ある言語の解釈が他の言語の解釈より優先されるわけではない。確かに、de factoな仕方で95%のEUの法が英語によりdraftingされているものの、全てのEUの法への24言語による、裁判を含むアクセスが保障される。
重要なのは、24公用語の法文それぞれは翻訳ではなく、それぞれが公式なヴァージョンであるということである。裁判において、ある法文の解釈が一致しないときに、複数の言語を比較するということによって納得できる結論に至りうる。この論文が報告するように、比較アプローチ(comparative approach)が可能となる。
このような翻訳を比較して結論を出すというアプローチは、完全に一致しない間でも、仏教学が行ってきたアプローチに近い。
仏教学と以上のようなアプローチが異なるのは、仏教学には明らかにインド語という原語が存在することである。そのインド語を取り巻く形で、漢語、チベット語などがある。
とはいえ、複数の言語を扱うときに生じる虚構性をどうにか乗り越えようとする試みをEUの例は示すように思われる。翻訳あるいは複数言語性の持つ虚構性は注意深い運用によって克服可能となる。
仏教学は複数言語を扱うが、それに伴うある言語伝統への忠実さの欠落、その欠落が生じさせる伝統からの疎外、そして、疎外により生じる伝統に対する虚構性、これらは仏教学の今日の持つアプローチの長所でもあり短所でもある。
複数言語を扱いながら、ある言語伝統に忠実であるようなあり方も、EUの複数言語の法運用を考えると可能ともなろう。EUの状況はとても興味深い示唆を翻訳者に与えている。
以上に、lo tsā baという言葉の持つlokaへの影響を考慮した発想、そしてそのような翻訳観を部分的には反映するようなEUの法律事情を述べ、社会における翻訳、正確には複数言語性の意味を確認した。
རིག་ནུས་དང་ང་ཚོའི་རིག་པ།།
AIと私たちの知性
とはいえ、複数言語性の意味、そして翻訳の意味を認めるにせよ、今日のGenerative AIはlo tsā baが人間である必要性を常に問うてくる。
人を傷つけることのできる言語の持てる性質を考えたとき、翻訳において人が関わる重要性を主張する意見は根強いかもしれない。
あるいは、lo tsā ba的な翻訳者観、翻訳が標的言語(target language)に与える影響を反映した表現を考慮に入れると、翻訳は自身の、あるいは相手の言語を変容させてしまう暴力的な試みでありうるかもしれない。
そういった翻訳の言語上、そして心理上の暴力性を理解したとき、それをAIに任せてよいのかと議論は当然ありうる。
とはいえ、以上のような原理的な思考はそれとしても、翻訳には機械的な置き換えの側面も確かに存在し、むしろそのような翻訳が歓迎される場もあろう。
そして、現在の仏教学が虚構的な言語操作の段階に終始するのであるならば、以上のような懸念を通過して、AIが進出する大義が与えられるだろう。誰も傷つかない翻訳であるから、AIがしてもよいといった語りが生じよう。
あるいは仏教学に限らず、あらゆる文献学的な手続きの一環として行われる翻訳は、まさにそのようなAIの特性と相性がいいように思われる。翻訳の正確性に拘っているのは、一部の学者だけだからである。法律の誤訳よりもその世間(loka)への影響は低かろう。であるなら、責任論の問題からしてそこにAIが進出することは理にかなう。
lo tsā baはlokacakṣusに由来する以上、そのloka的な意義を問い続けなければならない。lokaから浮遊した「高尚な」翻訳がありうるとき、かの翻訳者はすでにlo tsā baではない。lo tsā baの社会的な導きからして、決して人間でなければならない。
仏教研究者、経典翻訳者たちは、仏教の伝達を助ける、あるいは仏の言葉を別な言語に置き定める、そういった役割を多かれ少なかれ担っている。彼らがlo tsā ba的な意識を常に自問できるかがこれからの仏教の存在に大きく関わるだろう。
མི་ཕན་ཚུན་རྩོད་རྙོག་པ་དང་འབྲེལ་བའི་རང་ངེས་རང་རྟོག་གི་སའི་སྒྲིག་པ།།
相容れない立場を繋ぐメタな場の構築
加えて、以上のような複数の言語を比較するアプローチが学問的にnaïfなものでないものとして存在するために、さまざまな試みがあった。そしてそのうちの一つに、複数の「根拠地」の内容物を操作するメタな場の構築があった。
言語を超えて世界に伝播した、伝播しつつある仏教を、それらの一部が「根拠地」的な土台に基づいて受容されているために、それぞれの伝統から理解するとなったとき、我々は複数の、ときには相容れない「根拠地」を操作する場を構築する必要性に直面する。
lo tsā baのもう一つの責務は、「根拠地」を操作するメタな場を構築することである。ただの翻訳者、skad gyurは、二つの根拠地をつなぐことはできる。
とはいえ、それをすると同時に、lo tsā baは二つの、あるいは複数の「根拠地」にある内容物を操作できるメタな場を用意する。そのメタ性こそがlokacakṣusという言葉に関わっている。
根拠地を繋ぐことは、対話の場を構築することでもある。立場の違う人、そしてその立場の違いが個人的な要素に還元できない類の深刻なものである場合、「根拠地」を想定し、自分の側の「根拠地」を問い直すと同時に、相手側の「根拠地」を調査し、そして、その二つの内容を操作するメタな場を作ることで、人の問題から離れて対話に専念することができよう。そして、それは暴力的な仕方で人を現代的な対話装置の中に引き込むのとも異なる。相手は相手の論理にいていいし、私は私の論理にいてもいい。それでいて、その二つをメタに整理する場が用意されている。
lo tsā baはそういった場を作ることに招かれている。lo tsā baは、立場の異なる「根拠地」の部分同士の対話を可能にし、平和構築に貢献することが求められよう。
第五部 根拠地へと深く
私が留学した学堂は、ギュメ学堂は、ゲルク派の密教僧院である。チベット密教は顕教を基礎とする。学僧の教育プログラムは以下の通りである。
参考のためゲルク派の序列を述べておくと以下の通りである。
ここで述べる学僧の学位ゲシェーハランパ(dge bzhes ha rams pa)について説明を加えると以下の通りである。
ギュメ学僧のドゥディン学級の1日の日課はおよそ以下の通りである。ほとんどの時間は暗記と勉学に費やされる。
詳しいカリキュラムは、西沢史仁先生の2011年の博士論文を参照してほしい。また、乾将崇の「サンボのチベット僧院留学中間報告書」(2025年4月に東京大学仏教青年会から発行予定の『仏教文化』63号に掲載)を参照してほしい。
入寺してから3年間は仏教論理学を学ぶ。以下は仏教論理学を命題論理での記述を試みたものである。
ここで命題論理から、一階述語論理での記述を考える。
ここでは、ཡོད་པ། ཡིན་པ། の違いについて見ておく。
ここでは、無効命題(chos can nus med)について扱う。
最後のx≠aの記号化は適切ではないと思われる。これについて、諸氏の意見を賜りたい。
第六部 むすび
(謝辞)
本留学は、文部科学省官民協働プロジェクト・トビタテ留学JAPAN第16期に採択され、多大なる支援を官民から賜った。ここに政府、支援企業、篤志家の皆様に感謝を申し上げる。この講演会活動は、奨学金受給要件である「エヴァンジェリスト活動」に該当する。
加えて、2024年12月20日に名古屋大学で開催された第一回チベット仏教研究ワークショプで研究発表を行い、留学の成果を研究上還元した。